信康事件とはなんであったのか

大河ドラマでは、戦なき世を目指した瀬名姫と信康殿の計画である“武田家をはじめとした多くの大名家を併呑した連合国を築く”という構想が、武田による裏切りから信長様の知るところとなり、瀬名姫と信康殿は処断される悲痛な結末が描かれておった。

誠に儚(はかな)く、そして斬新なる信康事件の描き方であった。

じゃが!

此度の戦国がたりでは信康事件が起こった理由の一つである『親子不仲説』に基づいて大河とは反対の目線で描いてまいろうかと思う!!

信康と瀬名姫が家康殿と不仲であったことをこの事件の理由とするのが『不仲説』。

この不仲の原因と思える最初の出来事は信長様と徳川家の同盟『清州同盟』の発足である。

皆々、息災であるか、前田又左衛門利家である。戦国がたり第七回開幕じゃ! 此度は皆々に戦国の基礎知識、同盟について話して参ろう!同盟とは、大名家の間で結ばれる軍事協力、或いは戦をしないことを定めた契約のことである。大河ドラマ『どうする家康』でも信長様と家康殿の同盟である清州同盟が描かれておったわな。そこで此度は、戦国時代にあった代表的な同盟やおもしろき同盟について三つ紹介して参ろうではないか!!いざ参らん!!

早速、元も子もない話であるが触れぬわけにはまいらぬ。

信康事件が起きたのが1579年で清州同盟が起こったのが1562年、故に事件の15年以上前に火種があったというわけじゃ。

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さて、徳川家の歴史のおさらいと参ろう!

家康殿の正室・瀬名姫の生家は、今川氏重臣の関口家。瀬名姫の父である関口氏純殿は今川家随一の忠臣である。

今川家が桶狭間の戦いで信長様に大敗を喫し、危急存亡の危機に立たされる中でも瀬名姫の父である氏純殿は忠臣として今川家をよく支えておった。

じゃが! 今川家中で重要な役割を担うはずだった家康殿は、今川家を見限り織田家と結び、今川家の領土へ攻撃を始めたのじゃった。娘婿が敵方に寝返ってしまった関口家は力を失い没落し、一説に氏純殿は責任を取って自刃なされたとも言われておる。

瀬名姫からすれば主家を裏切り、父を死に追いやった挙句、主君今川家の仇である織田家と行動を共にする徳川殿を見て、快く思えないことは至極当然であろう。

このことから、徳川殿と瀬名姫の関係にあった不和が信康事件の根となっておっても不思議ではない。

次に考えられるは武田と戦い領土拡大に励み前線で活躍する浜松勢と、後方支援が中心となり織田家との外交を担う岡崎の立場の違いが不和を生んだとする説じゃな。

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そもそも、危険な戦さ場に出る代わりに活躍すれば出世につながる浜松勢と、織田家との関係に心を割きながらも大きな出世の機会がない岡崎勢は双方共に不満を抱えておった。

浜松城主の家康殿と、岡崎城を治めておった信康殿・瀬名姫の円満ではない関係性がそれを後押しする形となってしもうた。そして徳川家の文書には信康殿はしばしば蛮行をはたらき、年長のものを軽んじ横暴であったと記されておる。

関係が悪い中で、徳川家の威信を失いかねない行いを繰り返す信康殿を見切り、岡崎勢が反乱を起こす前に手を下したと考えるのがこの『不仲説』の概要である。

家中の争いとはいえ、嫡男を粛清するとあっては一大事。故に徳川殿はあらかじめ信長様に相談を致した。

酒井忠次殿を遣(つか)わして家康殿に反抗的なことや不行状が繰り返されることを伝え、信長様は「家康存分次第」とお返事になられた。

つまりは徳川殿の行いたいようにせよとのお言葉であるな。

これは戦国時代の日記『当代記』に残る言の葉で、親子不仲説の論拠となっておる。

我らにはこの事件にいかなる真相があるかは分からぬが、俗説や謬説(びゅうせつ)を含め様々な視点で歴史を推察することも醍醐味である。

皆々が思ういきさつを考えてみるが良い!

して此度は親子の仲について語って参ったでな、これよりは戦国の親子関係についての豆知識を紹介いたそうではないか!!

戦国時代の後継者について!

皆々はなんとなく後継ぎは長男が任されるものという印象があるのではなかろうか。

これが定着したのは江戸時代に入ってからなのじゃ。

何せ実力主義の戦国時代である。愚鈍な長男と賢明なる次男であれば後者を選ぶのは、考えてみれば当然であると言える。

これに加えて正室以外との間にできた子は庶子として扱われ、後継候補の順位は下がっていくこととなる。

織田信長様も実は二人の兄がおるが母の土田御前様が父の信秀様の正室であった為、後を継ぐこととなった。逆に弟の信勝様は信長様と同じく土田御前様のお子であったが故に、後継に信勝様をおす家臣によって家督争いが起きておる。時代を遡ると北条義時様の長男泰時様も前妻の子であったが故に義時様の死後に継室の子、政村様との間で相続争いが起きておったりもするわな。

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因みに儂、前田利家も前田家の四男であったが、家督を継いだ兄の利久様が病弱であったことから信長様のご意向によって家督を継ぐことになったのじゃ。

儂の場合は珍しい例ではあるが、長男がある程度は優先されるものの実力や、当主の意向によって定められるのが後継であることを覚えておくが良い。

ドラマなどで耳にした事があるであろう『嫡男』あるいは『嫡子』という言葉も実は長男という意味ではなく、後継者という意味なのじゃ。

此度の戦国がたりはここまで。次の戦国がたりでは、武田家で起こった家督問題でこの信康事件にも影響を与えたとされる「義信事件」について紹介いたそう!

ここで話した戦国時代における嫡男の話しを覚えておくと理解が早いであろうな!頭の片隅に置いておくが良い。

それでは次の戦国がたりで会おう!

さらばじゃ!

写真・文=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)