「古老の記憶地図」とは

昭和期の街並みを調べるとき、もちろん地図も使いますが、かなり役立つのが「住宅地図」ですね。人が実際に現地を歩き調べた上で作られた大縮尺図ですから、通りに並ぶ商店の業種だの屋号だのが具体的に書き込まれていて、また数年おきに更新されるので、かつての風景や変遷を推測するのに便利なわけです。

製作発行している民間業者が、昔は何社もありました。作られ始めたのは昭和30年代です。それより前、終戦時くらいまでさかのぼるときは、また別の特殊な地図を使いますが、どこの街のものも存在するわけじゃありません。住宅地図のほうも、昭和30年代末頃のものからしかない街もあります。爺ちゃん婆ちゃんたちが生きた時代のことなのに、そのころの街並みを俯瞰しにくくなっている――意外な現実です。

こんなとき役立つのが、「古老の記憶地図」。大日本地図製作社刊。……なんて出版社はなくて、ほんとうに地元で長く暮らす人が、記憶を頼りに記した手描き地図のことを勝手にこう言ってみました。

私がこれまでに出会った「記憶地図」をいくつかをあげましょう。

これまでに出会った「記憶地図」

まず、都心にあったバラック横丁の地図。ある飲み屋さんに保存されていました。黄ばんだペラ一枚紙に、細かなタイルを敷き詰めたように小さな店と屋号が書き込まれおり、私が拾い読んでいると、女将さんが横から、昭和30年代の付近の様を話してくれました。増改築を繰り返したバラック群の建物は二階建てと三階建てが混在していたこと、細い路地の入口・出口双方が低くなっていて、真ん中へ進むほどに土地が盛り上がっていたこと、路地一帯に共同便所の臭気がただよっていたこと……などなど今も目の前に横丁が広がっているかのように言葉にしてくれました。

※ぼかし加工を施しています。
※ぼかし加工を施しています。

西東京のある街では、昭和20年末から翌年にかけてと思われる時期の地図を、戦前から土地に暮らすお爺さんに書いてもらったことがあります。

高架化される前の駅前には、屋台風のヤミ市が四角い枠で記され、玉突き場、赤ちゃん屋(子供服)、サーカスなどの文字も見えます。ヤミ市のあった一帯は土地が低く、泥濘(ぬかるみ)となっていたこと、白い割烹着を来た和服の女将さんたちが、一本裏手の小料理屋へ客引きをしていたこと(料理だけを供していたのではありませんでした)、玉突き場からは白いマフラーを巻いた特攻崩れ風ファッションの不良たちが出入りし、空き地となっているところは、サーカスのテントがときどき張られた話などをお爺さんは言い添えます。また旧植民地から命からがら帰国し、進退窮(きわ)まった人々が肩を寄せ合った引揚者住宅のバラック群の話なども語ってくれました。現在、まったくその痕跡は街に残っていません。

※ぼかし加工を施しています。
※ぼかし加工を施しています。

城東のある街では、古老が、なんと大正期から昭和中期ごろまでの商店の変遷を地図に書きのこしていました。これも飲み屋さんに長く保存されていたものです。コピーを繰り返し、常連客などに配っていたようでした。大正篇のその一角は空き地が多く、驚くべきことに、都内の商店街でありながら湧き水が描かれています。戦中篇の地図には、強制疎開地(空襲火災の延焼を防ぐため建物を間引く措置をした土地)に指定され、建物が引き倒されてしまった範囲が具体的に記され、終戦篇では、そこがマーケット化して飲み屋になったこと、その屋号までが記されていました。

※ぼかし加工を施しています。
※ぼかし加工を施しています。

多摩川に近い神奈川県のある街では、お爺さんが記憶を頼りに地図を書くだけでなく、自分より先輩の古老に電話をかけ、昭和20年代から30年代にかけての商店の移り変わりを聞き取ってくれた上、私に教えてくれました。「八百屋、魚屋、パン屋……このパン屋がそのあと古本屋になってね」というような具合に。記憶地図ともいえますし口承地図とも言えそうです。

やはり地図への補足説明が、記録にのこりにくい、なまなましさを伴っていました。低湿地帯であったために、駅舎のホームも沼の上にセリ出すようにあったこと、この商店街自体も土管をうずめた土地の上に臨時的に作られたものなどが語られました。いまはペデストリアンデッキの立派な駅ですが。

地図より人が先行する

ハッキリと紙の上に示される屋号やその変遷だけでなく、建物の形、土地の匂い、わずかな高低差、袖を引いた割烹着の女将さんたち、埋められた暗渠下の土管、白マフラーの不良青年、困窮した人々。公的資料の上になかなか姿を現さない昭和戦後期の点景です。それでも決して無視すべきではない戦後史の重要なピースの数々だと私は思うのです。

「古老の記憶地図」は、私がふと思い出した例に限らず、いまだ古老の頭の中にだけあって、文字化されていないものが無数にあるわけですね。

ここでひとつ言わせてください。昭和の街を調べるとき、お若い方であればあるほど、まだまだ動き回れるうちは図書館にこもりきらないで、街へ出ていただきたいな、ということです。出て、街を知りたい!というこちらのフトコロをさらけ出してしまえば、街の先輩たちが力を貸してくれることがあると思います。少なくとも私はそうでしたし今もそうです。資料と資料の間をつなぐ、小さな欠片を手渡してもらってきました。これらを受け取らずに刊行済みの地図だけをにらんでいたなら、見ようとしていた街は、まったく違うものだったと思います。

当たり前ですけど、地図は太古の昔から自然物のように存在するものではありませんね。絶対的な存在に感じがちですが、戦後のものなどはとくに、こうして紙の上からこぼれてしまっているものが相当あるのではないでしょうか。もう一度言ってしまいますけど地図は自然物ではありません。人が作ったものです。地図より人が先行します。爺ちゃん婆ちゃんが暮らした街を地図から知ろうとするとき、人に会わずして読み解ける地図って、果たしてどれほどあるでしょうか。

文・写真=フリート横田
TOP写真提供=Photo AC

オリンピックの選手村を作るために様子がすっかり変わってしまったのですが、晴海ふ頭を歩くのが好きでした。あのあたり、戦後はまだ、ねじり鉢巻きで麻袋を担ぐたくましい男たちが荷の積み下ろしに汗を流していましたが、昭和も40年代に入ってコンテナが登場してくると、風景にさびしさが混じっていきました。同じ東京港でも、品川や大井にはガントリークレーンでどんどんと積み下ろしができる「コンテナふ頭」が生まれ、レゴブロックをはめこむように規格の揃った箱を一挙に運べる大量輸送時代へ向かっていきます。晴海ふ頭は、その波に乗り切れませんでした。
慕情、夜の蝶、キャバレーゴールデンダイス、バー夜行列車、カフェー野ばら。……こういった系統の屋号、お嫌いでしょうか? これらはすべて、実在した店の名前です。
程度の強弱はあれ、昭和のころに作られたさまざまなレトロなものにご興味があるから、こうして今、本連載エッセイを読んでくださっているものと思います。そうすると、たとえば建築なら、木造のひなびたものがお好きでしょうか?いや石造りや鉄筋コンクリート造りが好きだよという方なら、昭和初期に造られたアールデコのものなどですかね。戦後、小さな商売人たちのために建てられたこんな建物はどうでしょうか?※写真はイメージです。