名水白木屋の井戸
江戸時代、日本橋の南側に白木屋という呉服屋があったといいます。
白木屋は近江商人・大村彦太郎の創業で、同じ時代日本橋北側にあった越後屋(現在の三越百貨店の前身)と並ぶ大きな店でした。
1711(正徳元)年、白木屋の2代目彦太郎は、日本橋周辺の住民が困っていた「飲料に向かない塩分を含んだ水」という問題を解消しようと思い立ち、店の敷地内に井戸を掘ることを決めます。
工事は難航しましたが、ある時一体の観音像が掘り出され、そこからはこんこんと豊かに水が湧き出しました。
清らかな水はこの地域に住む人々の生活の助けとなり、以来、多くの人に「白木名水」と謳われるようになりました。
越前松平家では、この名水で当主の病が治ったとして、明治維新まで毎朝この井戸へ水を汲み取りに来ていたそうです。
フィールドワーク①日本橋の歴史
まずは日本橋一帯を歩きながらこの地の歴史について調べてみることにしましょう。まずは「日本橋」です。
東京都中央区、日本橋川にかかる日本橋は、江戸時代初期に将軍・徳川家康の命のもと作られました。
しかし江戸は火事が多かったこともあり、木造の日本橋は焼失と再建を繰り返します。
1618(元和 4)年に最初の架け替えが行われ、現在の日本橋が架けられたのは1911(明治44)年。
家康の作らせた日本橋を初代とすると、現在のものは19代目だそうです。
今は橋の真上に首都高速道路が走っていますが、「日本橋区間地下化事業」として2040年度の完成を見据えて着々と首都高の地下化工事が進んでいます。
次は日本橋周辺において、井戸を作った呉服屋・白木屋とライバルだった「越後屋」です。
1637(延宝元)年に江戸本町にて創業したこの越後屋は、現在は三越百貨店として日本橋室町にて営業を続けています。
通一丁目(日本橋1丁目)の白木屋と駿河町(日本橋室町)の越後屋、そして大伝馬町(日本橋大伝馬町)の大丸屋は「江戸三大呉服店」と言われ、多くの人々に親しまれていました。
しかしどうして江戸時代初期、この一帯の井戸からは塩分を含んだ水しか出なかったのでしょうか。
調べてみると、日本橋と銀座のある中央区は江戸時代に江戸幕府の城下町として作られた埋め立て地であることがわかりました。
東京湾岸は江戸時代から埋め立て地として沖合に拡大し、中央区も江戸初期から埋め立てが実施されていたのだといいます。
言われてみると現在の日本橋川からも少し潮の匂いがするような、しないような……。
時代とともに変わっていくのは建物だけではなく、かつて海だった場所が街になっていることもある。そんな新鮮な驚きを感じました。
フィールドワーク②東京都指定旧跡「名水白木屋の井戸の碑」
日本橋を歩きながらこの辺りの歴史をおさらいしたところで、白木屋の井戸が存在した証、東京都指定旧跡「名水白木屋の井戸の碑」を見に行ってみることにしましょう。
名水白木屋の井戸の碑はコレド日本橋の脇にあるそうなので、まずはコレド日本橋へ。
2023年4月現在周辺は工事中で道が狭くなっていますが、名水白木屋の井戸の碑を見つけることができました。
この地の名水として多くの人に愛された白木屋の井戸。
そんな大切な井戸も、時代の流れとともに街の変化に巻き込まれていきます。
白木屋を継いだ東急百貨店日本橋店は1999(平成11)年に閉店。それに伴い、白木屋の井戸は完全に消失します。
現在は「名水白木屋の井戸の碑」として、コレド日本橋の脇に碑が残るばかりです。
なお、白木屋の井戸の工事の際に出てきた観音像は「白木聖観世音菩薩」として浅草寺・淡島堂に本尊として安置されています。
調査を終えて
知っていると思っている街でも、知らないことは案外沢山あるようです。
今回はあまり民話寄りではないテーマでしたが、歩きながら日本橋という土地にまつわる様々なことを知ることができました。
日本橋そのものの歴史や、白木屋のライバル店であった越後屋が現在の三越百貨店であること。日本橋はかつては海で、江戸時代に埋め立て工事が行われていたこと。
何かを少し深く知ることで、いつもと景色が違って見える。
日本橋を訪れた際は、ぜひこの記事で触れたことを思い出してみてください。
取材・文・撮影=望月柚花