たとえば、私はピンチになると心の中で「お母さん助けて!」と叫ぶ癖がある。取材先に向かう途中で道に迷ったときや、取材と〆切が続いて一瞬も気を抜けないときなど、私はたびたび心の中で母を呼ぶ。平たく言えばマザコンなのだ。

思えば、物心ついたときからお母さん大好きっ子だった。3人兄弟の末っ子として生まれた私は、寂しがり屋で甘えん坊な性格もあり、小さな頃はよく母に甘えた。

しかし、私はそこまで褒められることも、可愛がられることもなく育った。母はドライな人で、あまり愛情表現をしないタイプなのだ。祖父の介護で気持ちに余裕がなかったこともあるだろう。今なら母なりに愛情を持って接してくれたことを理解できるが、子どもの頃は「ママは私のこと好きじゃないのかも」と不安だったし、「もっとママから可愛がられたい」と思っていた。

母は美人で聡明で上品でセンスがよくて、私の自慢だった。友達が家に遊びに来ると、母はにっこり笑ってお菓子とジュースを出してくれる。友達から「サキのママは優しくてきれいでいいなぁ」と言われるたび、鼻が高かった。

一方で、私はパッとしない子どもだった。父に似て全体的に腫れぼったい顔をしているし、勉強もスポーツも芸術分野も人並み。作文以外で脚光を浴びることがない、地味で目立たない存在だ。子ども心に「自分はママの娘にふさわしくない」と思っていた。

そんな私が母と離れて暮らすことになったのは、19歳の春のことだ。生まれ育った札幌から進学のために上京し、私ははじめて母から離れた。物理的にも、精神的にも。

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演劇と小説の両方を学びたかった私は、御茶ノ水にある専門学校を進学先に選んだ。12月に入試を済ませ、無事に合格。翌年の4月に入学することが決まった。

東京での新生活に、私はそこまでワクワクしていなかった。なぜかと言うと、子どもの頃からことあるごとに母に「未来にいいことばかりをイメージしないで。未来に期待しないで」と口酸っぱく戒められていたからだ。

それというのも、私は夢見がちで、未来に過剰な期待をしては裏切られて泣くことが多い子どもだった。だから私がガッカリしないように、母はそんな言葉をかけつづけたのだ。今なら母の意図もわかるのだが、当時の私にとってそれは、未来へのワクワクを封じる呪いの言葉だった。

私は横浜の西谷という街に住むことになった。当時、父がそこで単身赴任をしていたからだ。ひとり暮らしより断然コストがかからないので、父のアパートに居候することになった。ひとり暮らしならもっと心細かったかもしれないが、父と同居なので、環境の変化にもそこまで不安はない。

大好きな母と別々の家で暮らすのはもちろんはじめてだったが、意外にもそこまで寂しくはなかった。

というのも、私はお母さん大好きっ子であると同時に、思春期以降は母に対してモヤモヤした思いを抱えていた。母は自分と私を同一視している節があり、私の気持ちを尊重してくれないのだ。

たとえば、仲良しグループから仲間外れにされて泣きながら母に相談すると、「今の子ってなんでグループになってつるまないと行動できないの? 学校なんて勉強しに行くところなんだから、ひとりでもいいじゃない。ママなら気にしないわ」と言われた。私は「いや、ママはそうかもしれないけど、私は気にするんだよ」と思う。私と母は違う人間なんだから、気にするポイントも違って当たり前じゃないか。

中2で不登校になってからは特に、母にわかってもらえないと感じることが増えて、母に対して恨みがましい気持ちを抱くようになった。

だから母と離れて寂しい反面、ほんの少しせいせいしたし、ワクワクした。

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父の家に引っ越した翌日、ひとりで区役所に転入届を出しに行った。保土ヶ谷区役所は相鉄線の星川駅のそばにある。よく晴れた日で、区役所の近くにある桜は満開だった。

末っ子で甘ったれで、しっかりしていない(と自分も周りも思っている)私だが、区役所での手続きはひとりでも滞りなくできた。

区役所の入口に、たくさんのチラシやパンフレットが差してあるラックがあった。桜という言葉が目に留まり、一枚のチラシを抜き取る。そこには横浜の桜の名所が載っていた。場所は「二俣川」とある。今日乗ってきた相鉄線で、横浜と反対方向に向かえば行けるはずだ。

私は急遽、二俣川の桜の名所に行くことにした。

相鉄線で二俣川駅に行き、駅からはチラシの簡単な地図を頼りに歩く。すると大きめの公園があり、そこには数えきれないほどの桜が咲いていた。

これが本州の桜か……!

それは、私が知る桜とはまるで違う。札幌では、桜といえばエゾヤマザクラだった。ソメイヨシノもないわけではないが、私の体感ではエゾヤマザクラのほうが多い。実家の庭にあるのも近所の街路樹も、エゾヤマザクラだった。

一方で、目の前の桜はソメイヨシノだ。札幌の桜よりも花びらの色が淡く、花の付き方も密集してモコモコしている。まるで綿菓子のようだ。

母は、このモコモコの桜を見たことがあるだろうか。母は生まれてからずっと札幌だから、この桜を見たことがないかもしれない。お母さんにもこの景色を見せてあげたいな、と思った。

公園にはお花見をしている家族連れがたくさんいた。平日の昼間だからか、母親と小さな子どもの姿が目立つ。レジャーシートの上でお弁当を広げ、お母さん同士でお喋りをしたり、子ども同士で走り回ったりしていた。やがて強い風が吹いて桜吹雪が舞うと、どこからともなく歓声が上がった。

そんな賑やかな中、私はひとりでポツンと桜を眺めていた。「きれいだね」と言い合える相手はいない。

写真を撮ってお母さんに送ろうか。そう思い、ガラケーを桜に向けたものの、やめた。やっぱり、この景色を独り占めしたくなったのだ。母と共有したい気持ちもあるけれど、それ以上に、自分ひとりの胸に閉まっておきたくなった。

お母さんから離れて、ひとりで横浜で桜を見ている。

ただそれだけのことが、なんだかものすごいことに感じた。ちょっとだけ寂しくて、うんと自由で、誇らしい。

寂しがり屋で甘えん坊の私が、はじめて「自立」を意識した瞬間かもしれない。

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この1月に離婚をした際、両親がいる元々の戸籍に戻さず、自分ひとりの新しい戸籍を作った。明確な理由はないが、そうすることが自然に思えたのだ。

私は相変わらず寂しがり屋でマザコンで、離婚後、母にLINEで愚痴ることが増えた。本人には言わないが、心の中では1日に何十回も「お母さん助けて!」と叫んでいる。

先月、母が一週間ほど私の家に滞在した。仕事を終えてから母とふたりで散歩をすると、近所の桜が満開で、母は「これが見れただけでも東京に来てよかったわ」と嬉しそうだった。

休みの日はふたりで買い物に行って、行列のできるカフェでパンケーキを食べた。出かける前、母に丁寧にメイクとヘアセットとネイルをしてあげたら、母がパッと若返った。私が子どもの頃の母を思い出し、懐かしくなった。

母が帰る前日、「お母さんが帰っちゃうの寂しいな~」と言ったら、母は言った。

「あなたはどれだけ寂しくても、実家に帰ってくるつもりはないでしょう? だからお母さん、『実家に帰って来なさい』とは言わないよ。あなたは東京でちゃんとやれるから、札幌から応援してるよ」

その言葉が、私は嬉しかった。「実家に帰って来なさい」と言われなかったこと。私が「ここで頑張りたい」と思っているのを、母が知っていてくれたこと。

甘ったれの私のなけなしの自立心を、母は尊重してくれた。ふと、二俣川でひとりで桜を眺めた19歳の春を思い出す。あのときと同じくらい、嬉しくて誇らしい気持ちだった。

ひとりは寂しいし、母がいると楽しい。だけど私は、東京で、今いる場所で頑張りたい。

「ひとりでいさせてくれる人」がいる有り難さと、温かさを噛みしめながら。

文=吉玉サキ(@saki_yoshidama

方向音痴
『方向音痴って、なおるんですか?』
方向音痴の克服を目指して悪戦苦闘! 迷わないためのコツを伝授してもらったり、地図の読み方を学んでみたり、地形に注目する楽しさを教わったり、地名を起点に街を紐解いてみたり……教わって、歩いて、考える、試行錯誤の軌跡を綴るエッセイ。
札幌から上京したと言うと、よく「大都会で驚いたでしょ?」と言われる。しかし私は19歳で上京した当初から、東京の「都会さ」にはさほど驚かなかった。何度か東京に遊びに来ていたから知っているし、札幌も充分に都会だ。大自然に囲まれた土地から出てきたわけではないし、周囲が望むような「いかにもおのぼりさん」なリアクションはできない。それよりも驚いたのは、梅雨の湿度と夏の暑さだ。もちろん、関東に梅雨があることも、札幌より暑いことも知っていた。だけど、それがこんなにも辛いだなんて。どうして誰も、教えてくれなかったのだろう?
母との関係を一言で説明するのは難しい。私はマザコンなので、母が世界一の母親だと思っているし、生まれ変わってもまた母の娘がいい。しかし、その思いを本人に伝えたことはない。「お母さん大好き」と無邪気に言えるような関係性ではないのだ。私は物心ついたときから彼女に遠慮があり、心から甘えることができずにいる。たとえば、私は母に「〇〇作って」とおかずをリクエストしたことがない。以前YouTubeで好きなアイドルが「お母さんにチャーハンをリクエストしたらなぜかピラフが出てきた」というエピソードを話していた。それを見て私は、「お母さんにチャーハンをリクエストできる親子関係いいなぁ」と思った。よっぽど仲がよくないとできないことだ。しかし、それを友達に話すと「えっ、おかずのリクエストしたことないの? 子どもの頃は普通にしてたよ」と言われた。「えっ。そんな、おそれ多いよ」「おそれ多いって。親子でしょう?」親子でも、おそれ多いものはおそれ多い。我が家では献立は母が決めるから、出てきたものを食べるだけだ。私は母のコロッケが大好きだが、「コロッケ作って」と言ったことはない。言ったところで嫌な顔はされないと思うが、とてもじゃないけどそんなこと言えない。なんでと言われても、私と母はそういう関係なのだ。