私は当時、先の見えないバンド活動や就職活動に焦りを抱えつつも一日の大半をギャンブルや携帯のゲームなどに費やしていた。そんなどうしようもない時間すら、人生という長いスパンで見れば何ら間違いではなくムダでもない、そんな風に自分を肯定してもらえた気がしてうれしかったのだ。
数年後、テレビで偶然トータス氏が自身の過去について語っているのを見た。彼は服飾の専門学校に通っていた頃から毎日ひとりで河川敷に行ってはギターを弾いて歌をうたい、歌手としての技術を鍛錬していたそうだ。番組を見る限り、彼は若い頃から真っ直ぐに努力を続けてきた人のようだった。なんだ、ムダなことしてないじゃん、と勝手に裏切られた気分になった。あるいは「ムダ」という言葉の示す範囲が彼と私では違った可能性がある。「何もかも ムダじゃない」という歌詞は、恋がかなわなくたって人を愛せたこと自体が素晴らしいとか、挫折したとしても夢に向けて努力した時間は次に繋がるとかそういった類の話で、朝から晩までただパチンコを打っている若者にはさすがにトータス氏も「それはムダだからやめなよ」と言うのかも知れない。
しかしそれ以降も私は「明星」の歌詞を自分のいいように解釈し、一日をダラダラと過ごし罪悪感に襲われた夜も「この経験がきっといつか何かの役に立つはずだ」と考え平常心を保った。
実際、創作の仕事をする上ではどんな経験も完全なムダではないといえないこともない。あの頃パチンコに多大なる時間とお金を捧げたおかげで「パチンコがやめられない」という曲が生まれ人に聴いてもらうことができた。惰眠を貪り夕方に目が覚めて絶望した日々も「今日は寝るのが一番よかった」という曲になった。その他数々のしょうもない失敗談も、当欄のような場所でネタにすることによってそれなりに成仏したように思う。「何もかも ムダじゃない」のは真実だったのかもしれない。しかしどんなに根がポジティブな私でも、未だにどうしても肯定的に捉えることのできない時間がある。それは「ネットを見ている時間」だ。
全敗の十数年史
私は10代から現在に至るまで気の遠くなるような時間をインターネットの閲覧に費やしてきた。あれは本当に意味のない時間だった。その分を何か他の有意義なことに充てていれば、もう少し出世していたことだろう。たとえ後悔の念を歌詞や文章にしたところで、ネット依存のような悩みはあまりにありふれていて人目を引かない。どの観点から見ても本当にムダでしかない時間、それがネットを見ている時間なのだ。
もちろん、ムダだと知りながら対策を打って来なかったわけではない。私のネットに対する闘争の歴史は大学生の頃に溯(さかのぼ)る。はじめは当時所有していたdocomoの携帯に「こどもフィルタ」を設定した。こどもフィルタとは、子供が有害なサイトを見られないよう、通常は親が子供の携帯に設定するものだ。いい年をした大人が自らの携帯を差し出し「こどもフィルタを設定してくれ」と要求するのが珍しかったのか、docomoショップの店員は怪訝(けげん)な顔をしていたが、おかげでそれまで見ていたまとめサイトやエロサイトは閲覧できなくなった。しかし安心したのもつかの間、私は多種多様な検索を試みるようになり、やがてこどもフィルタをすり抜けて閲覧できる有害なサイトを発見。再びそれらを見て時間をつぶすようになってしまう。これではこどもフィルタをかけた意味がない。
数年後、今度はiPhoneに「スクリーンタイム」なる機能が搭載された。この機能により各アプリに使用制限時間の設定が可能になり、制限を超えるとアプリが使用できなくなった。これこそ自分が求めていた機能だと感動した。ただ、確かに制限時間を超えるとアプリは使えなくなるのだが、自らが設定したパスコードを入力すればいつでも解除できてしまう。普通なら自分で設けた制限をわざわざ破らないのだろうが、私は毎回躊躇(ちゅうちょ)なくパスコードを入力し、実質的に制限はなくなってしまった。
友人に頼んで自分にわからないパスコードを設定してもらったこともあった。しかしパスコードをリセットする方法もググったら出てきた。やり方さえ知ってしまえば、それを使用しないよう自制することが私にはできない。いくら本気でやめたいと思っていても、ついつい売人と接触を持ってしまう薬物中毒者のようなものだ。
他にもさまざまな縛りを課したがどれもうまくいかなかった。インターネットとの闘争に十数年敗北し続けているうち、「結局自分はそういう人間なのかもしれない」と次第に諦めの境地に達してきた。そこで現在は、「何もかも間違いじゃない/何もかも ムダじゃない」というあの歌詞を、どうにか「ネットを見ている時間」にも適用できないものかと、もう一度解釈を試みている次第だ。
たとえば、記憶にはほとんど残っていないが脳内に堆積しているであろうネットワードやトリビアが、歌詞や文章を書いているときちょろっと出てきたりして、それが作品のいいスパイスになったり、そしてその結果自分の代表作になるくらい売れたりしたら、「やっぱり何もかもムダじゃなかったんだ」と改めて思えるかもしれない。
文=吉田靖直 撮影=鈴木愛子
『散歩の達人』2022年12月号より