結婚する、そして子供を作るということは、人生の一部、もしかしたら半分以上を他人に明け渡すというようなものだ。今後進むべき道が完全に定まっている、たとえば一生同じ会社に勤めると決めているような人なら早めに結婚するのもいいかもしれない。だが私の場合まだ大した結果も出せておらず、この不安定な状態のまま家庭を持つことは、自分の能力は結局この程度だと見切りをつけ諦めてしまう行為のように感じられた。

ブルーハーツ時代のマーシーのソロ曲に「さよならビリー・ザ・キッド」というものがある。10代の頃、社会に楯突き輝いていた友人が大人になって生活に揉まれ意気消沈してしまった寂しさを歌った曲だ。「21で結婚して27でもう疲れて/夢のかけらさえ投げ出し惰性で時を過ごしている」「今度子供が生まれるよ それでもうオレも終わりさ/力なく笑う君には反逆者のカゲすらない」。たまにその歌詞を思い出しては、今は己の未来のためだけにエネルギーを注力すべきだと自分に言い聞かせた。

過去に交際していた女性と同棲する流れになりかけたこともあったが、有耶無耶にしてはぐらかした。こんな中途半端な段階で同棲〜結婚などということになったら後悔するに決まっている。孤独の中でこそ人はモノを作り出すことができると言うではないか。恋人とひとつ屋根の下に住んでぬるま湯に浸っていたら、私の持つ潜在的な創造性は日の目を見る前に失われてしまうだろう。

だが、表現する者が皆孤独に生きているかというとそんなことはない。芸術の世界でも若くして結婚しその後頭角を現す者はいる。また、「年を取ると自分だけのために頑張ることができなくなる」「ひとりでは無理な局面も家族がいるから頑張ることができる」。そんな成功者たちの発言も耳にしたことがある。たしかに説得力はあるが、私は彼らとは違うのではないか。彼らはきっとひとりでも成功していただろう。現状、自分のことすら大して頑張れていない私のような人間に、人のために頑張る余裕はない。そもそも今まで生きてきて人のために何かをしたいと思ったことがほとんどない。「君を守りたい」的なJ‐POPの歌詞も、本音では心情が理解できない。

同棲はいいものだった

そんな偏屈なことを言っていた私だが、2022年になって10年以上居候した家を出て、彼女と一緒に住み始めた。月並みだが同棲することになったのだ。果たしてうまくやっていけるか、確信は持てなかったが、昔のような「人と住んだら創造性が失われてしまうかもしれない」といった類の不安はもう消え失せていた。長い間ひとりで暮らしてきた結果、自分は孤独からモノを生み出すタイプなどではなく、放っておいたらただ環境に甘え何もしなくなるだけの人間なのだと身に染みてわかったのだ。とりあえず生活環境を変えたいと思った。人と住んだ方が放埓(ほうらつ)な生活に陥りにくく、今までより自分を律してクリエイティブなことができるのではないか、そんな期待もあった。近しい友人たちが次々と結婚したことによる焦りもあった。もし上手くいかなかったとしてもそれもいい経験だ。

そんなわけで同棲生活を始めてみたら特にストレスを感じることもなく、それどころか日々の暮らしに安心感が出てきた。彼女の人柄のおかげもあるだろうが、率直に言って毎日が楽しくなった。人と住むってこんなにいいものだったのか。さらに驚いたのは、ほぼ毎日自炊を継続できたことである。

今までも気が向いたとき何かを作ることはあったが、日々の習慣としてこんなに長く続いたのは初めてだ。やはり自分以外に料理を食べてくれる人がいるからだろう。自分ひとりなら、空腹が満たされればカップラーメンだろうがレトルトカレーだろうが何でもいい。しかし人が食べてくれるならできるだけいいものを作ろうという気にもなる。少し遠出をして専門店で買ってきた味噌で味噌汁を作ったり、ニラをナムルにするなど常備菜を作ったり、鉢植えで自家栽培したハーブ類を料理に入れたりもした。アクアパッツァやパエリアのような特別なイベント的料理ではなく、魚の干物や味噌汁などの平凡な自炊を毎日継続していく行為には今までに感じたことのない充足感があった。

私はそのとき、先人たちが言っていた「自分だけのためには頑張れないことも人のためなら頑張ることができる」という言葉の一端をつかんだような気がした。この感覚の延長線上に「家族のために仕事を頑張る」というモチベーションもあるのだろう。

しかし、そんな気づきを噛(か)み締める間もなく、いろいろあって同棲生活は3カ月ほどで解消となり、同居人が出て行ったアパートに今ひとりで居座っている。いきなりひとりになるとやはり何をやっても虛無感が付きまとう。いつ起きてもいつ寝ても、誰も何も言わない。自炊をする気も湧いてこない。自分が食べるだけの飯などどうでもいい。私は人と住んだ方が心豊かに暮らせる側の人間だったのだとこの年になって実感した。

次に人と住むのはいつになるだろう。その際には、3カ月前から行こう行こうと思いながら結局行かなかった大久保のアジアン・マーケットで新しい食材を手に入れ、またいろんな料理を作って同居人に振る舞いたい。

日本テレビ系『ZIP!』内朝ドラマ「泳げ!ニシキゴイ」の脚本も担当。吉田自宅にて。※写真と本文は関係ありません。
日本テレビ系『ZIP!』内朝ドラマ「泳げ!ニシキゴイ」の脚本も担当。吉田自宅にて。※写真と本文は関係ありません。

文=吉田靖直 撮影=鈴木愛子
『散歩の達人』2022年10月号より

私が通っていた早稲田大学には当時数十もの音楽サークルがあったが、私がいたサークルは“オリジナル曲中心”を標榜していた点で他とは少し違った。ヒップホップ、ブラック・ミュージック、レゲエなどジャンルによって区別されているサークルが大半の中、実力はさておき、とにかく自分の音楽を作り、ひいてはその音楽で世に打って出たいという野心を持つ者が数多く属していたように思う。とはいえ、ごく一部の例外を除きその活動が世間に評価されることはない。サークル員たちはバンドを組み下北沢や新宿のライブハウスに毎月出演していたが、全く芽の出る気配のない数年を経た後も音楽を諦めきれず、またはサークル内の退廃的な空気に流され1年か2年留年した後、結局は普通に就職してそのうちバンドをやめてしまうパターンが大半だ。就活に力を入れて来たわけではないため有名な大企業に入社できるような者はほとんどおらず、大体は適当な中小企業に就職する。私も音楽で世に出るという野望を隠し持ってサークルに入ったクチではあるが、やはり1年留年して卒業する時期になっても音楽で食っていく道は全く開けていなかった。才能はなくともバンドを諦めて実家に帰るのはどうしても受け入れがたく、東京に残る口実として仕方なく小さなIT企業に就職したものの、全く適性がなく1年半で離職。その後、バイトを転々としながらのらりくらりとバンド活動を続け、今に至る。あの頃はバンドをやめて就職することが人生の敗北を意味するようにさえ感じていたものだが、30代も半ばになるとそんな熱っぽい考えも消えた。音楽家として生きていくことと、会社に就職して生きていくことの間にそこまで大きな隔たりがあるようにも今は思えない。もっとも、それは私が人一倍長い時間バンドにしがみつき、こうして媒体で時々自分の思うところを書かせてもらったりしているおかげで、表現欲や承認欲求といったものが多少は満たされているせいかもしれない。だが収入面でいえば、あの頃サークルにいた面々の中で現在の私は最下層になるのだろう。私の知る限り最も経済的に成功しているのは、「SUSURU TV.」というYouTubeチャンネルの運営会社の代表をつとめる矢崎という男だ。
大学卒業後も就職先が決まらず、主にギャンブルが原因で借金が膨らみ首が回らなくなっていたとき、バイト先の先輩が「俺んち部屋空いてるから家事とかやってくれるなら住んでいいよ」と言ってくれた。お言葉に甘え阿佐ヶ谷のアパートから高田馬場の先輩宅に転がり込む形となった。以前は先輩の祖父母が住んでいたという一軒家は、新宿区としてはかなり広かった。1階はリビングと私の部屋。2階の半分が先輩の居住スペースで、もう半分は賃貸アパートとして2部屋貸し出されていた。そこには60代くらいの夫婦と、その隣には中高年の女性がひとりで住んでいるようだった。ようだった、と推測することしかできないのは、私が入居の挨拶などをせず、家の前でたまたますれ違う程度にしか2階の住人について知らなかったためだ。当初は生活を立て直すまでの間だけ先輩の家に仮住まいさせてもらい、お金が貯まれば出ていく予定だった。だから形式張った挨拶も不要と考えた。しかしその後なんとか就職するも、浪費癖のせいで一向に貯金はできず、そのうち会社もやめてフリーターとなり、長い居候生活に突入してしまう。そうなっても今さら、2階の住人に対して明るく振る舞うことはできない。ボソッと「こんにちは」と会釈をして通り過ぎるだけの関係性のまま数年が過ぎていった。私の寝起きする部屋の前の庭を2階の住人はよく通り過ぎた。部屋には床から私の背丈くらいの高さのガラス窓があり、そこから派手に散らかった部屋の様子が丸見えだったはずだ。せめてまともな人間だと印象付けたかったので、できるだけカーテンを閉めて部屋の中が見えないように工夫していたが、カーテンを閉め忘れたまま外出することも多く、私のただれた生活態度は覆い隠せていなかったと思う。