繁華街にある昔ながらのベーカリー
『布屋パン』は、JR八王子駅北口から続く西放射線通り、通称ユーロードのすぐそば。駅から歩けば2分とかからない一等地にある。きれいに整備されたユーロードは人が多く行き来していて活気があり、若者向けの店が多い。そんなエリアにある『布屋パン』は、一見、異彩を放っている。
しかし、よく見ればすぐ近くには、八王子の名物店になっている『都まんじゅう』があり、昭和29年創業のラーメン店『竹の家』があったりする。歴史が古い八王子は、古いものと新しいものが混在している街なのだ。
そんな店の中でも『布屋パン』は、かなりの古参になる。今回、取材するにあたり、「店の歴史を聞かせてほしい」とお願いしたところ、それならと、二代目、別府新一さんの妹、小野和子さんが対応していただけることになった。おかげさまで、貴重な話をいろいろと聞くことができた。
ルーツは長野の油商人
『布屋パン』を始めたのは、長野県小諸出身の別府昇次さん。昇次さんの家業は江戸時代から続く油屋で、かつては小諸城に出入りする御用商人だったという。そのときに城主から屋号を『布屋』とつけてもらい、それ以来『布屋』を名乗っている。てっきり、八王子が繊維で栄えていたから『布屋』とつけたのだと思い込んでいたが、そうではなかったのだ。
江戸時代、油(綿実油)は貴重なエネルギーだったが、明治以降、石炭や石油が普及し始めると、需要が極端に落ち込んだ。別府家も没落したようで、昇次さんは東京に出て、パン屋を始めることにした。これが大正の中頃のこと。この頃から昭和初期にかけては、洋食文化が急速に広まっていった。このタイミングでパンを商売にしたところを見ると、かなり先見の明があったのだろう。
最初は駅構内であんぱんなどを売っていたが、大正11年(1922年)に、現在の店舗より駅に近い場所に店をかまえた。ちなみにこの昇次さん、かなり趣味人だったようで、昭和の戦前には、ダットサンの乗用車を買って乗り回していたという。
街の発展にも貢献
昭和20年8月2日の八王子空襲で、周囲は焼け野原になってしまったが、昇次さんはめげずに店を立て直す。1971年には火災に遭って、現在の地に移るが、街の発展とともに『布屋パン』も業績を伸ばしていった。その好調さは、二代目の新一さんによるところが大きかったようだ。
新一さんは、クリスマスのデコレーションケーキを売り出し、これがヒット。八王子の青年会議所の会頭も務め、なんと西放射線通りの建設に尽力したという。さらにロータリークラブや商工会議所にも所属するなど、商売の一方、街の発展にも貢献していたのだ。
しかし60年代以降、八王子周辺に大学が増えると、街の雰囲気も変わってきた。店の周辺も精肉店や青果店など生活のための商店が多かったが、商売をやめてテナント貸しをするようになり、若者向けの飲食店が急増。昔の雰囲気を残す店は『布屋パン』ぐらいになってしまった。
大正時代から八王子にずっとあり続けていた『布屋パン』は、パン職人さんがレシピを受け継いで今も作り続けているため、そのパンの味も変わらない。ふかふかのパン生地は最近のトレンドからすると平凡に思えるが、その優しい味わいは深く心の中に染み込んでくる。
お客さんは近隣に住む常連さんがほとんどだが、最近は、かつて八王子に住んでいて引っ越した人が、遠方から買いに来る事が多いという。おいしいものの記憶というのは、何十年たっても変わらないのだ。
にぎやかなユーロードを横にそれ、『布屋パン』に一歩足を踏み入れると、そこだけゆるやかな時間が流れているように感じる。100年続いたパンと店、できれば、もっと長く味わいたいものである。
取材・撮影・文=本橋隆司