関東の武士たちに好まれた作風の相州伝

相州伝は五代執権北条時頼の時代、幕府が山城国から粟田口國綱、備前国から一文字分派の國宗、さらに備前国福岡一文字助真を鎌倉へ招いたことが始まりとされている。

やがて粟田口國綱の子、新藤五國光が注目される。國光は鎌倉へ下向した備前三郎国宗にも学んだことで山城伝、備前伝の双方を習得したのだ。その作品は「鎌倉住人」と銘打たれた永仁元年(1293)頃の短刀が名高い。

門人には行光、越中則重、郷義弘、そして五郎入道正宗がいた。鎌倉時代末期に活躍した正宗は、当時の国状に従い作風に改善を加え、相州伝独特の作風を完成させた刀工だったことから、相州伝の祖とも言われている。正宗の系統は正宗の後、五代を経た廣正の時代に、小田原の後北条氏に仕えた。そして北条家二代当主の氏綱より綱一文字を賜り、代々綱廣を名乗るようになる。その後は関東に入府した徳川家の御用鍛冶として栄えた。

相州伝を確立させた五郎入道正宗 の技を今に引き継ぐ「正宗工芸」

鎌倉駅を西口から出て、線路に沿って北鎌倉駅方面に向かいT字路を左に曲がると、数軒先に「正宗工芸」という看板が見える。それが相州伝を確立した五郎入道正宗の技術を今に引き継いでいる、正宗24代目の山村綱廣さんが刀工を務める刀剣店である。

五郎入道正宗の技術を今に伝える正宗工芸。
五郎入道正宗の技術を今に伝える正宗工芸。

戦国時代は、その質実剛健で実戦向きの作風ゆえ、多くの武将に好まれたという相州伝。覇気に満ちた作風は、他国の刀工たちにも大きな影響を与えている。近年は「先を切り開く」と言われ、縁起の良い刀剣は、お祝いの品や記念品として根強い人気がある。とはいえ需要はけして多くはないため、店内には刀だけでなく包丁など、家庭用の刃物も並ぶ。

山村綱廣さんの後ろにある扉の奥に工房がある。
山村綱廣さんの後ろにある扉の奥に工房がある。
店内に飾られている美しい日本刀はまさに眼福もの。
店内に飾られている美しい日本刀はまさに眼福もの。

店の奥には日本刀の工房があり、実際に刀の鍛錬が行われている。個人の注文だけでなく、奉納刀なども鍛えていたが、現在は山村さんの体調等もあり、残念ながら中断されている。再び威勢の良い合槌音が聞かれるようになることを、願って止まない。

店の奥にある日本刀の工房。
店の奥にある日本刀の工房。
2019年の暮れに行われた正宗工芸での作刀風景。
2019年の暮れに行われた正宗工芸での作刀風景。

「正宗工芸」の店舗と並んだ場所には、小さな稲荷社がある。ここは「合槌稲荷」と呼ばれている。合槌というのは刀を鍛錬する際、息を合わせ交互に金槌を打ち下ろすこと。このように、刀剣用語から一般用語に転化した言葉は多い。

店の並びにある合槌稲荷。刀鍛冶の守り神とされている。
店の並びにある合槌稲荷。刀鍛冶の守り神とされている。

綱廣の屋敷があった場所に建つ 鎌倉の歴史と文化を体験できる施設へ

相州伝ゆかりの地を巡るのであれば、正宗工芸の後は扇ガ谷にある「鎌倉歴史文化交流館」を訪ねたい。途中の道は、いかにも鎌倉らしい閑静な住宅街を抜けていて、それだけでも気分が高揚してくる。

鎌倉らしい静かで粋な住宅街が続く扇ガ谷。
鎌倉らしい静かで粋な住宅街が続く扇ガ谷。

ここは鎌倉に多く残されている歴史的遺産と文化的遺産を学び、体験し、交流できる場として、平成29年(2017)5月15日に開館。かつて無量寺谷(むりょうじがやつ)と呼ばれていた地に建っていて、近くには安達盛長の邸宅や、安達氏の菩提寺である無量寿院という大寺院があったと考えられている。建物は著名な建築家であるノーマン・フェスター氏の設計事務所が手がけた、個人住宅をリノベーションしたもの。それだけでも一見の価値ありなのだ。

鎌倉歴史文化交流館では2022年3月11日まで「北条氏展」を開催。(12月29日〜1月10日は展示替のため休館)
鎌倉歴史文化交流館では2022年3月11日まで「北条氏展」を開催。(12月29日〜1月10日は展示替のため休館)

この地には、江戸時代になると相州伝の刀工正宗の後裔である綱廣の屋敷があったと伝えられている。こうした縁もあり、展示室入口前のガラスケースには、山村綱廣さんが作刀した大刀が飾られている。

展示室への入口付近に置かれている山村綱廣氏作刀の日本刀。
展示室への入口付近に置かれている山村綱廣氏作刀の日本刀。

そして建物外の小高い場所には「合槌稲荷社」の跡が残されている。綱廣の屋敷があった頃、その敷地内に刀鍛冶を守る「刃稲荷」が祀られていたと考えられていた。

大正時代になると、三菱財閥四代目の岩崎小弥太が母の早苗のため、この地に別荘を構えた。その際、かつて祀られていた稲荷社を合槌稲荷として復興。参道や鳥居、石造神狐像、社祠を整備した。

2000年に老朽化が著しかった社祠が再建されたが、鎌倉市に土地と建物が寄附された際、社祠や神狐像、参道鳥居は葛原岡神社に移設されている。稲荷社跡地は雨天時以外、見晴台として利用されている。

建物の裏手にある合槌稲荷社跡へ続く階段。
建物の裏手にある合槌稲荷社跡へ続く階段。
鎌倉歴史文化交流館は今も深い緑に覆われた谷戸の風景が望める。
鎌倉歴史文化交流館は今も深い緑に覆われた谷戸の風景が望める。
基壇だけが残されている合槌稲荷社。
基壇だけが残されている合槌稲荷社。
合槌稲荷社跡からは無量寺谷から相模湾までを遠望できる。
合槌稲荷社跡からは無量寺谷から相模湾までを遠望できる。

閑静な住宅街の路地奥にひっそりと佇む正宗ゆかりの稲荷社

鎌倉歴史文化交流館から鎌倉駅方面に戻り、北鎌倉方面へと向かう今小路を寿福寺へと辿る。寿福寺山門の100mほど手前の路地を入り、30mほど進むと、うっそうと茂る木立の中に石祠がある。これは「鎌倉正宗稲荷」と呼ばれ、もともとは五郎入道正宗の屋敷に祀られていた稲荷社だと伝えられている。

今小路まで戻ったら、寿福寺方面へ向かう。
今小路まで戻ったら、寿福寺方面へ向かう。
気づかずに通り過ぎてしまいそうな正宗稲荷。
気づかずに通り過ぎてしまいそうな正宗稲荷。

昭和55年(1980)に発行された『鎌倉廃寺辞典』には、「刃稲荷(やきばいなり)扇ガ谷、今小路」と紹介されているのだ。この稲荷社は江戸時代、雪ノ下で旅亭「吾妻屋」を営み、俳人でもあった松尾百遊が再興したものと言われている。百遊は由比ヶ浜大通りにある六地蔵に、松尾芭蕉の句碑を建てた人物。

正宗稲荷から踏切を渡り、鎌倉随一の観光商店街である小町通りへ向かう。しばらくは飲食店や雑貨店を冷やかしつつ、鶴岡八幡宮へと向かった。八幡宮にある「鎌倉国宝館」や「鎌倉文華館鶴岡ミュージアム」では、鶴岡八幡宮が所蔵する刀剣を公開することがあるので、正宗の足跡を辿る際には事前にチェックしておきたいところ。

鎌倉の人気スポットとして知られる小町通り。さまざまな店が並び飽きさせない。
鎌倉の人気スポットとして知られる小町通り。さまざまな店が並び飽きさせない。
鶴岡八幡宮の境内東側にある鎌倉国宝館。
鶴岡八幡宮の境内東側にある鎌倉国宝館。
平家池に隣接する鎌倉文華館鶴岡ミュージアム。
平家池に隣接する鎌倉文華館鶴岡ミュージアム。

正宗の記念碑や供養塔が残されている日蓮宗の名刹・本覚寺

そして最後に訪れたのは、五郎入道正宗の墓がある本覚寺。寺が建つ位置は、鎌倉幕府の裏鬼門に当たることから、もとは源頼朝が鎮守として夷堂(えびすどう)を建てたと伝わる。この夷堂は文永11年(1274)、佐渡配流を許され鎌倉に戻った日蓮上人が住まいに利用している。

永享8年(1436)になると、一乗日出を開山として夷堂があった場所に本覚寺が建てられた。二代目住職の日朝上人が、身延山から日蓮の骨を分けて収めたことから「東身延」とも呼ばれている。

永享8年(1436)に建立された日蓮宗の本覚寺。
永享8年(1436)に建立された日蓮宗の本覚寺。

まず本堂に向かって左手には、正宗の記念碑が建てられている。そして碑の奥、渡り廊下をくぐったすぐの場所に建つ宝篋印塔(ほうきょういんとう)が、五郎入道正宗の供養塔である。さらに奥に進んだ墓地内にも、五郎入道正宗親子の墓と伝わる無銘の墓石があった。この形状と古さは、何やら本物感が漂っていた。

境内に建つ正宗碑。
境内に建つ正宗碑。
碑の背面にある渡り廊下をくぐった場所に建つ正宗の供養塔。
碑の背面にある渡り廊下をくぐった場所に建つ正宗の供養塔。
墓地内には正宗親子の墓と伝わる墓石もある。
墓地内には正宗親子の墓と伝わる墓石もある。

相州伝の祖とされる五郎入道正宗と、その系譜を受け継ぐ人たちゆかりの地を巡る散策は、鎌倉の新たな魅力を発見できる旅になるであろう。見学時間を除けば、ここで紹介している場所すべてを回っても2時間程度なので、鎌倉殿のその後に想いをはせつつ、訪れてみて欲しい。

取材・文・撮影=野田伊豆守