僕が生まれ育ったのは東京都豊島区南池袋2-9-16のアパート2階。母方の祖父母が所有するアパートから、隣の新築一軒家に引っ越したのは8歳のとき。ある日学校から家に帰ると、母親が生まれたばかりの妹とリクライニングチェアーに揺られていた。新築の家の照明と相まって、光に包まれているように見えた。あれは「幸せ」と呼ぶのだと思う。

家は池袋駅から歩いて10分と掛からなかった。池袋と言えば西武デパートだが、終戦の年生まれのおふくろによると、むかしは自宅から二階建ての西武デパートが見えたという。

僕にとって西武デパートといえば、幼い頃におふくろとはぐれて迷子になり、成長してからは寂れた屋上でうどんを啜り、10階の書店でマンガを買う場所だった。

家から歩いて2分と掛からないお寺の一角に小劇場があった。若者文化に理解のある住職が建てたと聞く。名前はシアターグリーン。無名時代の山下達郎と大貫妙子が在籍していたシュガーベイブがそこで頻繁にライブをやっていたなんて、大人になるまで知らなかった。

池袋駅正面から直進で100メートル程度の場所に南池袋公園があり、学校が終わるとそこで野球をやった。いま考えても立地が良い場所だったと思う。ぶらんこ、すべり台、砂場、ジャングルジムなどの他に、球戯禁止のゲージや、噴水広場もあって、だいたい毎日、同級生と夕方まで遊んだ。

噴水は夜になるとカラフルなライティングが施され、2時間ドラマの撮影によく使われていた。テレビに出てくるといつも一瞬でわかった。ルンペンもいた。当時はホームレスなんて言葉はなかった。

通称アベック公園と呼ばれて、周囲をラブホテルが囲っていたが、僕が利用するようになるのは、大人になって池袋を出た後からだ。

南池袋公園が閉鎖されてからずいぶんになる。白い無機質な壁に囲まれて、何人たりとも入れない。「ホームレスを締め出すため」と聞いたことがあるが、本当だとしたら街ごと爆破してやりたくなる。幼なじみの親たちがいまだに住んでいたとしてもだ(編集部注:今年の4月にリニューアル開園しました)。

映画館は歩いて行ける距離に10館はあった。この連載のvol. 1 でも書いたけど、当時の映画館はいかがわしい雰囲気が立ち込めていた。僕たち子供は映画館を回ってチラシをもらい、実際よく観に行った。記憶が確かなら、小学生の前売り券は600円だったはず。

いわゆるゲーセンは僕が小学校低学年の頃にできた。

肉屋を営んでいた父親は、日曜日は店を閉めて、兄貴と僕をパチンコ屋に連れて行ってくれた。当時はまだ777はない。僕はパチンコが強かった。幼い子供がジャラジャラ玉を出しているので、大人の客が物珍しそうに眺めていた。

パチンコに飽きると100円玉を2枚もらって、すぐそばのゲーセンに行った。パックマンとギャラガが現れたときは、子供心に新時代の到来を感じた。

僕の世代と今の若い人にとってのゲームセンターはまったく意味が異なるだろう。

思春期に聴いていた大槻ケンヂのオールナイトニッポンでこんな投稿があった。

「彼女をゲーセンに連れてくる奴」

真夜中に大爆笑した。

むかしのゲーセンは男がひとり、もしくは友達とで、黙々とテレビゲームをやる場所だった。

「俺も連れて行ったことがある。得意なゲームでいいとこ見せようと思うんだけど、彼女のほうは“大槻くん、もう行こ”って(爆笑)」

すいません、もう少しむかしの池袋についてダラダラトークを続けますね。

池袋の東口から西口を抜ける半地下の道があって、WE ROADと呼ばれる。WEとはWESTとEASTの意味。今でこそ照明灯があって横断しやすくなっているが、むかしは違った。昼間でも真っ暗。下水の流れる音がして薄気味悪い。自転車を降りて押さなければいけなかったけど構わず乗った。ときどき何かを踏んだと思ったら、寝ている浮浪者だった。

西武デパートとサンシャイン60がある東池袋と、東武デパートと立教大学と飲み屋だらけの西池袋は、同じ池袋でもまったく異なった。見えない壁のようなものがあった。社会人になってから西口育ちの人と会ってそのことを話したら同意してくれた。

当たり前のように大きな歓楽街で過ごしてきた。だから家にあった週刊誌に、池袋がヤクザと風俗店だらけの危険な街だというレポート記事を目にしたときは驚いた。えっ、そんなヤバいところで育ったの!?と。

でも確かに目撃したことがある。真っ昼間、駅前の横断歩道で、ヤクザが娼婦らしき女性に「おまえ、これ!」って慌ててタバコを渡していたの。あれ中身、タバコじゃないでしょ。

僕が成長するにつれ、池袋はビルド&スクラップを繰り返し、巨大化していった。遊べるエリアがむかしより拡大していった。

明治通りにタワレコの池袋店ができると、大学生でヒマな僕は、寝起きのままTシャツ短パンサンダルで冷やかしに行った。

そのそばに母校の雑司ヶ谷小学校があったがもうない。自宅から歩いて1分の雑司ヶ谷中学校もなくなり、同じ場所に南池袋小学校ができた。

通りと店のひとつひとつ、名前も知らないおじさんおばさんたちとのやりとり。壁の落書き、駄菓子屋、大勝軒のオヤジさん、ビックカメラにドラクエⅢの行列、真昼の墓地、学校の怪談、パーキングメーター、好きな子の家、叶わなかった約束。それらすべての思い出に名前を付けていたら、センチメンタルに心が押し潰されてしまうだろう。

池袋に別れを告げるときが来た。僕が21歳のとき、隣に住んでいた祖母が風呂場で溺れ死んだ。享年84。それからちょうど四十九日に、老人ホームに預けていた祖父が死んだ。こちらは89歳。親戚はみんな、「おばあちゃんが連れて行った」と口にした。

祖父母が住んでいた家と僕らの家の土地は祖父母のものだった。親戚に遺産を分配し、相続税を支払わなければならないため、自宅を引き払うことになった。

そうして四半世紀暮らした池袋を、しばらくして訪れたとき、ショックなことがあった。

街が、他人の顔をしていた。

遊び慣れたサンシャイン通りも、父親の肉屋があった東通り商店街も、目を瞑っても帰れると思っていた家までの道のりも、どことなくよそよそしい。

池袋駅から見える場所に、長い煙突ができた。ゴミ清掃工場が建てられた。何の根拠も因果関係もないと言われるが、池袋を訪れるたび、目と頭が痛くなった。特に春先は、翌日寝込んでしまうほど。

――そうか、池袋はもう「帰ってくるな」と言うんだな。

現在は住まいが京都のため、池袋を訪れることは年に片手もない。せいぜいタカセのマドレーヌを買うくらいだ。

僕から言えることはひとつ。

池袋よ、おまえについて想うとき、この身の奥から巻き起こる、言葉にならない感情は何なのか。

親父が逝ったせいなのか。それ以外にも理由があるのか。いつか答えてほしい。

『散歩の達人』2016年11月号

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