爪切男 Tsume Kirio

1979年、香川県生まれ。作家。自身のみじめさをさらけ出すという意味で、とても由緒正しい私小説を発表し続けている。主著に『死にたい夜にかぎって』(扶桑社)、最新刊は『今日も延長ナリ』(扶桑社)。

「ここは港みたいな場所なんですよ」

爪切男は、私小説家だ。パンツまでも脱ぎ捨てて、フルチンの自分を見てもらうような職業である。まさにそのような小説を書き、ドラマ化までされた。彼はいま、中野区内在住だが、東中野に住んでいるわけではない。

「東中野って、明らかに中野と違いますよね。中野ってなんか全体的にのほほんとした感じがするんです。でも東中野ってそうじゃないんですよ」

しかし実際に何があるのかと言われると答えに窮してしまう。そんな東中野へは、最初はTシャツを買いに来ただけだった。今も爪さんが愛用する『ハードコアチョコレート』のTシャツである。だがいつの間にか、東中野のあちこちをさまよい歩くようになった。銭湯『アクア東中野』の露天プールにぷかりと浮かび、『洋菓子ドーカン』でジェラートを食べた。

そうして彼は今も東中野に通っている。その中心は、ムーンロードの入り口に位置する『BARバレンタイン』だ。『ハードコアチョコレート』が経営するバーである。

「こういうバーの醍醐味って、横のつながりじゃないですか。たまたま席が隣同士になった人が同じ趣味の話で盛り上がって、というね。好きな物の歴史を掘り下げることは1人でもできるけれど、自分と同世代の人や同じものを愛する人から得られる見聞はこういうところじゃないとできませんから」

カウンターの向こうにはプロレス、B級から名作、任侠などさまざまな映画、あるいは特撮やアニメのDVD。壁や天井にはポスター。カウンターの上にも酒の瓶と共に、キン肉マンや怪獣のフィギュアが所狭しと並ぶ。

「きつい仕事して疲れ切ってる人でも、こういうところで自分の『好き』をバーッて叫んでると、やっぱり元気になれるんですよ。ここならどんな趣味でも誰かしら打ち返してくれますから」

現にこのとき店内では、われわれプロレスファンは来るべきアントニオ猪木の死にどう備えるのかという話が真剣に行われている。アントニオ猪木が亡くなったのは、この数時間後である。

「サブカル」御用達Tシャツ屋『ハードコアチョコレート』

その圧の高いデザインと同様に、店内にみっちり詰まったTシャツ、ジャケット、帽子など。コラボ相手はプロレス映画アニメに特撮、果ては「強力わかもと」まで。このチョイスに何かを感じられるのなら、あなたはここでTシャツを買うべきだ。Tシャツは全商品全サイズ4400円。

住所:東京都中野区東中野4-10-16 クレールOSY 1F/営業時間:13:00~19:00/定休日:無/アクセス:JR総武線東中野駅から徒歩3分

極まる趣味のごった煮バー『BARバレンタイン』

爪さん御用達の『ハードコアチョコレート』直営バー。70・80年代生まれなら誰もが通ったあんな趣味やこんな趣味がこれでもかと詰め込まれている。特にプロレス好きならぜひ一度。チャージ+1ドリンク1000円、次の一杯から450円~。

住所:東京都中野区東中野4丁目2−1/営業時間:20:00~26:00(日は18:00~24:00)/定休日:月・火/アクセス:JR総武線東中野駅から徒歩1分。地下鉄大江戸線東中野駅から徒歩4分
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捨てても残るもの、それを大事に生きること

「ぼくはプロレスに救われたんです」
「ぼくはプロレスに救われたんです」

「人って、誰でも断捨離する時期があって、それでも残っちゃう何かを集めてこういう場所ができるんだよね」と、カウンターの向こう側。『ハードコアチョコレート』代表のMUNEさんだ。

コアチョコはプロレスにゲームやカルト映画、アニメに漫画などさまざまなジャンルの作品とタッグを組んで、Tシャツその他さまざまなグッズを作ってきた。そんな「サブカル」とくくられるような趣味は、そもそもがハイカルチャーの残り物、文化の澱(おり)だ。だからこそファンは身を寄せ合い、またそのようにして澱が溜まる場所ができた。

しかしもちろん、そのナワバリ意識は悪い方に向くこともしばしばだ。

「最近なにかで見たんですけど、“こんなおっさんに気をつけろ”っていうのの1つの例に、コアチョコのTシャツ着てるやつ、ってあったんですよ。その気持ちもわかりますよ。おれだけが知ってたあのアイドルが全国に知られるようになって、悔しい気持ちが湧いてきちゃうような。でも逆に言えば、そういう風に言われるくらいデカくなったっていうことですよね」、と爪さんはカバンからコアチョコのTシャツを取り出しながら言う。かつて新日本プロレスで活躍した「超竜」スコット・ノートンのTシャツだ。

「ぼくはプロレスに救われたんです。小さいころ本当に貧乏な家で育って、親父もひどい男でした。でもプロレスラーって、あんなすさまじい技を苦悶(くもん)に満ちた表情をしながら受け続けて、耐えて耐えて、やっと勝負が決まる。人間はあんなことでも耐えられるんだ。自分もふんばって生きよう、と」

そんな爪さんは、いま自身の贅(ぜい)肉を断捨離している。かつて炭酸飲料を毎日2ℓ飲んでいた男は、今やルイボスティーばかり飲んでいる。1年間で30㎏もの贅肉を捨て去ったがゆえに友人たちからは病気を疑われ、あるいは「バケモノみたいな君が街を闊歩(かっぽ)している姿を見ることで、自分は生きていていいのだと安心できたのに」とまで言われてしまったそう。

爪さんは、そんな話を笑顔でする。

人との出会いってホントに大事よ

外に出て、『マ・ヤン』に向かう。この店に来るのは、爪さんは初めてだ。重厚そうな扉は、見た目通りかなりの重さだが、出迎えてくれる東田敬子ママの声は、やさしくて明るい。あ、大丈夫だ、と誰もが感じる。

薄暗い、しっとりした雰囲気の店の奥にはアップライトピアノ、その隣に透明なビニールカーテンで仕切られたブースがある。これ透明じゃなかったら「熱湯コマーシャル」(の脱衣室)じゃないですか、と爪さん。

「ウチはね、20時からピアニストが来て、それでお客さんに歌ってもらうの。アナタもほら、歌いなさいよ。3曲くらい続けて。1曲で人が変わるとそのたびにマイク消毒するのも大変でしょ? じゃ、何から歌う?」

爪さんが西田敏行『もしもピアノが弾けたなら』を熱唱している間も、ママはいろんな話をしてくれる。

この店は、その雰囲気からドラマや映画の舞台になることもしばしばだ。

「あたしね、撮影とかそういうときはスタッフの人に鍵を貸しちゃうのよ。信頼してね。本当のプロの人たちは撮影が終わるとキチッと全部片付けて返してくれる。そうじゃない人には二度と貸さない。信頼ってそういうものでしょ? でも私の部屋の鍵もどうぞって言っても、そっちは受け取ってもらったことはないわね(笑)」

爪さんの2曲目は、ASKAの『はじまりはいつも雨』だ。

「でもそうやって人ってつながっていくでしょう? ムーンロードもそう。正式名称は『東中野駅前飲食店会』っていうんだけど、ここの看板、去年新しくなったのよ。すぐ隣の東京テクニカルカレッジの学生さんが作ってくれて。そこのビニールカーテンだって、お客さんのつながりで作っていただいたのよ。――あらアナタ、まだ歌ってもいいわよ。そっちにお酒持って行って歌うのも楽しいから」

歌い終えた爪さんが言う。

「うちのばあちゃん、父と祖父が酒でお縄になったのを見てきましたから、三代で同じことやるのはさすがに悲しむだろうと思って、昔から飲みすぎないようにしてるんですよ(笑)」

「そうやって、誰かを意識してるから、きっとアナタはいい人生を送れているんじゃないかしら。人との出会いとかつながりってホント大事よ」とママ。

ピアノで歌うシャンソニエ『マ・ヤン』

東田ママがこの店をシャンソニエとして始めてから半世紀近く。今ではすっかりムーンロードの顔となった。店の扉は重厚だが、一度入ればあまりにフレンドリーな店の雰囲気に酒もすすんで、あとはママに進められるがままにピアノの伴奏で歌を歌うだけ。ミュージック・テーブルチャージ2500円、ドリンク500円~。

住所:東京都中野区東中野4-1-6/営業時間:19:00~24:00/定休日:日・祝/アクセス:JR総武線東中野駅から徒歩1分。地下鉄大江戸線東中野駅から徒歩4分
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東中野には、特筆すべきものは何もない。中野より西側のような華やかな中央線文化とも、反対側の大久保のような異国情緒漂う雰囲気とも無縁だ。

しかし東中野には、すべてがある。小さくも商店街は生きていて、映画館もコロナに負けず踏ん張り、そしてムーンロードがある。生活に足るすべてと、その場所だけの文化がある。それを作る、人のつながりがある。これが人が生きるのに必要なもののすべてではないだろうか。

取材・文=かつとんたろう 撮影=高野尚人
『散歩の達人』2022年11月号より