源義家と鎧の渡し

これは永承年間(1046〜1053)、源義家が奥州平定のために移動していた時のお話です。

東北を目指していた源義家は、現在の日本橋兜町の兜神社からほど近くにあるこの地で暴風雨に遭ってしまいます。

川を渡ることすらできない凄まじい雨風の中、足止めされた源義家は龍神(水神)を鎮めるために鎧を川に沈め祈りました。すると、次第に暴風雨は止み、川を渡ることができるようになったと言います。

そのことからこの川を「鎧ヶ淵」と呼ぶようになり、やがてこの地にできた渡船場は「鎧の渡し」という名前になりました。

フィールドワーク①日本橋にある「鎧の渡し跡」へ

「鎧の渡し跡」は鎧橋(よろいはし)の傍にあるようで、東京メトロ日比谷線・東西線の茅場町駅から歩いて3分程度の場所に位置します。

地図アプリにも史跡として地点登録されているので、迷うことなくたどり着けるはず。さっそく歩いて行ってみることにしました。

茅場町駅10番出口から地上に出て、日本橋小網町方面に平成通りを歩いて行くと、すぐに首都高が見えてきます。

首都高の下にひっそりとかかっているのが、かつて「鎧の渡し」があった鎧橋です。

鎧橋は東京証券取引所のすぐ目の前にあり、上に首都高、下に日本橋川と、ふたつに挟まれる形でかかっています。

明治5年(1872)に当時の豪商が自腹でかけた橋が最初の鎧橋でしたが、「鎧の渡し」はその最初の橋が完成する直前まで存続していたとされています。

現在の鎧橋は昭和32年(1957)に造られたものだそう。「鎧の渡し跡」には特に何かの碑があるわけではないので、目標になるのはこの地の由来を記した看板のみとなっています。

ふと、ここで気になることを見つけました。鎧の渡し跡の看板に「この場所は源義家の伝説のほか、平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられている」ということが書かれていたのです。

平将門の納めた兜。今いるのは日本橋兜町。

もしかして、このふたつには関連があるのでしょうか。

フィールドワーク②「平将門の兜」と日本橋兜町の由来

鎧の渡し跡にあった「お江戸日本橋散歩」という地図を見ていると、現在地の近くに「兜神社」という神社があるのを発見。

日本橋兜町の地名と平将門の兜の関係がわかるかもしれない、と思い、早速向かってみることにしました。

 

東京証券取引所をはじめ綺麗なビルの多い場所なので、本当にここに神社があるのかわからないまま地図に従って歩きます。

鎧の渡し跡から歩いてすぐ、ビルの間にひっそりと兜神社が鎮座しているのを見つけました。

この兜神社の境内には「兜岩」という岩があり、これが日本橋兜町の地名の由来となっているとされているようです。

ですが、この兜岩の正体には諸説あります。

一つ目が、天慶3年(940)に起こった戦で平将門を討ち取った藤原秀郷が、この地に将門の兜を埋めたという説。

二つ目は、永承6年(1051)に前九年の役に向かう源義家が、兜岩に兜をかけて戦に勝てるように祈ったという説。

そして三つ目は、寛治元年(1087)に後三年の役で勝利した源義家が、都への帰還の際この地に今後の安寧を祈願して自ら兜を埋めたという説です。

兜神社の縁起(社寺の由来や起源)としては、三つ目の説、源義家が都に戻る際に自ら兜を埋めたことが有力説とされているようです。

源義家、平将門、鎧の渡しに兜岩……。

このオフィス街に、こんなに多くの伝説や故事が存在しているとは。現在の街並みとのギャップに戸惑うと同時に、なんて面白いのだろうと感心してしまいました。

調査を終えて

渡船場として、絵に描かれた名所として、さまざまな伝説の地としても有名だった鎧の渡し。

明治5年に最初の鎧橋が完成し、鎧の渡しが消えてしまってからおよそ150年の歳月が経ちました。

実際に鎧橋を訪れ、帰宅してから『名所江戸百景』の『鎧の渡し小網町』を検索して見てみると、たった150年で街も人も暮らしも随分と大きく変化するものなのだと改めて新鮮な驚きを感じます。

そして、それと同時に、失われていくものについても思いを馳せました。

形があるものも無いものも、時代が変わると少しずつ風化していくのが定めなのでしょうか。

江戸時代に有名な伝説だったはずの源義家の鎧の話も、平将門の兜も、兜岩の由来も、現在の鎧橋を渡る人々にはほとんど関心のない話なのかもしれない。

そんなわずかな寂しさを感じながら川を覗くと、かつてこの地にあったさまざまな伝説と、渡船場に溢れていたであろう活気が、静かに眠っているように感じられました。

取材・文・撮影=望月柚花