やっちゃったか?
各学年の優勝者と準優勝者の名前が順に呼ばれていく。隣に並んでいた池内君は壇上で表彰され、うれしさを堪(こら)えきれないといった表情で賞状を受け取り戻ってきて自分の足元に置いた。私も周りに合わせパチパチと拍手をしたが、実際それどころではなかった。唾はとうに許容量を超えている。表彰は3年が終わり4年生が始まったばかり。来賓の挨拶もあるのだろうか。耐えられる自信がない。もう飲み込むしかない。でも……。
その時、急に口の中が楽になった。あ、やっちゃったかも、と瞬時に思った。口内の唾の量が半分くらいに減っている。もう半分の唾は口から飛び出してしまったということか。ヤバい。表彰式の最中に大量の唾を吐いたのがバレたら、今後周りの奴らから「きたねえ」「近寄るな」などといじめられてもおかしくない。とりあえず消えた唾の行方を突き止めようと探すもどこにも見当たらなかった。道着や袴にもついてない。
やっと見つけた唾は、想像しうる限り最悪の場所に落ちていた。隣に立っている池内君の足元の賞状にベットリ付着していたのだ。血の気が引いた。なんでよりによって。池内君は黙って前を見ている。バレる前になんとか唾を乾かそうと片足を伸ばし、裸足で賞状の上の唾を薄く広げていたところで池内君と目が合った。彼は不審げに私の足の行方を追い、賞状を見るや「おい、お前……」と言って言葉を失い、信じられないといった顔をした。謝罪の気持ちと、わざとやったのではないということを伝えたかったが、口の中にはまだ唾が残っていて喋れなかった。
表彰式が終わるやいなや、列を飛び出してトイレへ駆け込み、口の中に残る忌々(いまいま)しい唾を吐き出した。池内君に何と言えばいいのか。「唾溜めゲーム」をひとりでやっていたら勝手に唾が飛び出し、たまたま賞状の上に乗っかってしまったなどと言って信じる人がいるだろうか。友人の好成績に嫉妬し、腹立ちまぎれに賞状に唾を吐きつけたのだと捉える方が誰がどう見ても自然だと子供ながらに思った。
トイレから戻ってくると、池内君と彼の母親が何やら深刻な顔で話している。賞状の件が話題に出ないわけはない。恐ろしくなった私は現実から目を逸らし、謝りもしないまま親の車に乗って逃げるように帰った。
次に剣道の練習で会ったとき、池内君に何と言われるか不安だった。しかし意外なことに、その時も、その次に会った時も、彼は何も言ってこなかった。あれ、なんかいつの間にか勝手に解決した感じになってる? と、少しホッとしたのもつかの間、小3で池内君と同じクラスになると、彼が主導して私を鬼ごっこで仲間外れにしたり、無意味にボールをぶつけてきたりした。堪(たま)りかねた私が「なんでそんなことするん⁉」と聞いたら「お前はあん時俺の賞状に唾吐いたやろが!」と言われ、ああ、やっぱりなかったことにはなってなかったんだなと思った。
文=吉田靖直 撮影=鈴木愛子 ポスター=全日本剣道連盟提供
『散歩の達人』2022年6月号より