徳川吉宗の命による沈鐘引きあげ作戦

徳川吉宗の下した「鐘ヶ淵に沈んでいる鐘を引きあげよ」という命のもと、用意されたのは江戸市中の女性数百人の髪で編んだ毛綱でした。これを鐘の最上部にある輪状の龍頭(りゅうず)にくくりつけ、引きあげようというのです。
なぜ毛綱なのか。それは、人間の毛髪は引っ張る力へ対する抵抗力が高く、1本の毛髪で100g~150gの重さに耐えられるといわれているからです。鐘の重さを考慮して、普通の綱よりも強度のある毛綱を使用したのでしょう。

ベテランの水夫がその毛綱を持ち川へと潜ると、川底には伝説通り鐘が沈んでいました。

早速毛綱を龍頭にくくりつけようとしたところ、突然目の前に若く美しい女性が現れ「この鐘は持ち主がいるので、勝手に持ち出すことはできません」と言います。
水夫が「それは困る。将軍の命令にそむくことはできないのです」と返事をすると、彼女は「あら、しかたないですね。それではあなたの顔をたてることにします」と告げ、消えてしまいました。

毛綱をくくりつけ、水夫が合図を出すと鐘はゆっくりと引きあげられていきます。川底から浮き上がり、ようやく鐘の龍頭が水面から出ようとしたところでした。
なんと、簡単には切れない毛綱が何かの力で断たれるようにあっけなく切れてしまったのです。
鐘は再び川底に沈んでいき、その一件以降、徳川吉宗が鐘を引きあげるように命じることはなかったといいます。

フィールドワーク①鐘ヶ淵駅と「鐘ヶ淵由来の記碑」

鐘ヶ淵に沈むとされている鐘は、一体誰のものなのか。そして引きあげの際に水夫の前に現れた女性は誰だったのか。色々と謎の多い話ですが、とにかく現在の鐘ヶ淵を見に行ってみることにしました。

まずは東武伊勢崎線・鐘ヶ淵駅で下車し、西口から隅田川方面を目指します。

鐘ヶ淵駅からしばらく歩くと、見えてくるのが「鐘ヶ淵由来の記碑」。

墨堤通りをまたぐ形で二段階横断歩道があり、その真ん中にあるのがこちらの記碑となっています。

 

上部に書かれているのは、この記碑が歌川広重の「木母寺内川御前栽畑」(江戸名所百景)をレリーフとしたものであることと、この地が徳川将軍の食膳に供する「御前栽畑」としての役割を担っていたこと。

下部には古地図とともに鐘ヶ淵の名前の由来についての説明がざっくりと書かれ、「寺院の移転の際に梵鐘を誤って川に落としてしまった説」と「隅田川が曲がる部分が工匠の使用する短尺に似ていることから説」の二つがが挙げられています。後者は鐘に関係ない話なのでは……?と思いましたが、曲がるところを指して「曲ヶ淵(かねがふち)とよんだ」という説もあるので、河の特徴を表しているとも考えられます。

写真を撮ってからふたたび隅田川を目指します。

フィールドワーク②鐘ヶ淵を探して歩く

梅若橋の下をくぐり抜け首都高6号の横断歩道を渡ると、隅田川に到着です。

隅田川にかかる水神大橋を渡る手前で右側を見ると、千住汐入大橋方面に隅田川が大きく曲がっているところを見つけることができました!鐘ヶ淵に到着です。

 

冒頭の民話から想像していた鐘ヶ淵周辺は、暗くておどろおどろしい雰囲気なのかと思っていましたが、実際に訪れてみると川沿いはランニングやウォーキングする人もちらほらいて、静かで悠々とした空気が流れる場所でした。

周囲にも「鐘」の存在をにおわすものはありません。

調査を終えて

民話は読んでいるとどうしても創作物的なイメージを抱いてしまいがちですが、嘘か本当かは置いておき、実際に訪れてみると「本当に存在する場所なんだ!」という新鮮な驚きがあります。

しかしこの鐘ヶ淵の沈鐘伝説、個人的に妙だなと感じるところがいくつかありました。

民話にはだいたい三つほど話のパターンがあると思っていて、大体の場合は神社やお寺の縁起(起源となる話)、教訓話、心霊話に分けることができます。

ですが、鐘ヶ淵のお話はそのどれでもありません。

神社やお寺の話ではなく、教訓的な話でもなく、心霊話とするにはあまりにも怖くなさすぎる、そんな気がするのです。

 

果たして、鐘ヶ淵には本当に鐘が沈んでいるのでしょうか。

隅田川沿いを歩きながらじっと川面を見つめてみましたが、川は暗く深く、何かを見つけることはできませんでした。

取材・文・撮影=望月柚花