養老孟司
虫の気持ちと健脚を持つ、みんなの先生
昭和12年(1937)、鎌倉市生まれ。東京大学名誉教授。子供時代から親しむ昆虫採集と解剖学者としての視点から、自然環境や文明批評まで視野広く論じる。2003年刊行の超ロングセラー『バカの壁』(新潮新書)を筆頭に著書多数。近著に、『子どもが心配』(PHP新書)、猫のまるとの思い出が詰まった『まる ありがとう』(西日本出版社)がある。
鎌倉を歩いて、80余年。先生の散歩こそ好手本
自宅を一歩出ると自然の宝庫。周辺一帯、いや鎌倉全域が、養老先生の散歩エリアだ。
普段見ている植物の変化を、やさしくも鋭い眼差しで観察しながら歩を進め、咲き乱れるシャガ、ダイコンソウ、ハコベの群生で立ち止まる。時にゆっくり、時に速くなる足取りはいかにも、虫のごとく自由気ままに虫探し、かな。
「散歩の目的が虫探しってわけではないけれど、いないかなあと思って歩いている。犬も歩けば棒に当たるで、結構珍しいものに出遭うこともあるから、それが楽しみ」
今日は、化粧坂(けわいざか)切通しから源氏山の山頂を目指す。
「ここは砂を含む柔らかい地層。地中が空洞になっていて、清水が多い。晴れていても水の流れを感じます」
滑りやすいが着地のクッションがいい道を、ひょいひょいと軽やかに登る。30年前に今の住まいに引っ越しするまでは、生まれ育った小町通り近くで暮らしていて、子供時代は寿福寺から続く道で源氏山の頂上を目指した。すでに昆虫採集に夢中で、
「よく行ったのは妙本寺。日蓮宗のお寺は基本的に街のなかにありますが、あの寺は山の中。虫のいるお寺でした。材木座海岸へも行きましたよ。松林があって、そこにタマムシやクロカミキリなどたくさん虫がいた。初めての標本作りは小学校4年生の時でした。
きっかけ? そんなもんはないよ。子供はみんな虫が好きでしょう。でも、鎌倉の自然豊かな環境はよかったんだと思います」
次第に、妙本寺は庭の手入れに精を出し、海岸の松林は枯れてしまった。
「最近は帰化植物ばかりになって、ロクな虫がいないですね。ここ4~5年、環境の変化は大きい。春になったら真っ先に出たイタドリハムシがいない」
80年余りも鎌倉の自然に親しみ、虫を見つめてきた養老先生の言葉には、憤りが込もる。
あっという間に山頂が近づき、ウグイスやカラスの鳴き声が一層大きくなる。あるいはガビチョウの物真似か。
「ひと休みしましょうか」。遠方から訪ねてくる客人と弁当を広げることもあるベンチに座る。昨日の雨が上がり、気持ちいい昼下がりだ。
「ひと雨来ると虫は元気になるから、たくさん会えるんだ」と、言うやいなや視線は数メートル先に。
「あそこにいる黒いアゲハが気になっていて。長いシッポがあるかな?」
え? どこに? 一緒にいるのにアゲハの存在に気づかない、我ら取材班。
「体のどこかに力が入っていたら虫は見えない。見えても虫はよく逃げる。こちらの力が伝わるからです。無心になって気配を消さなければ。
こうして自然の中、『対物の世界』にいると、だんだんそういうことを覚える。この方が人間の普通の姿なのだけど。今はみんな『対人の世界』の中にいるんです」
対物の世界・対人の世界とは、コロナ禍において、先生がことあるごとに論じているキーワードだ。
「対物とは、植物や虫など自然を相手にすることだけでなく、体を動かす作業、絵を描いたり、工作したりすることも含みます。みんな、あんまりやっていないんじゃないかな。得意な人もいると思うけど。対人とは、パソコンや携帯でメールを書いたり、人を相手に仕事をする、人がいないとおもしろくない世界です。人が自分をどう思っているか気にする。人に認めてもらいたいという気持ちが湧く。増えているでしょう。
メディアがこれだけ発達しちゃうと、人が中心になっちゃいますよね。散歩だって、雑誌を読まないで自分で行動すればいいんですよ」
さっきから、カアカアとカラスがうるさい。近くの木で羽休めする一羽を見つけ、友達に声をかけるように、「おい」。そして、取材班ににやり。
「スマホで撮った写真、何が写っていますか?」
人? 物? いや、人ばかりを撮っているのがだめというのではない。
「一番の問題は、対物と対人のバランスです。バランスがどのくらいだったら、自分にとって気持ちがいいかです。でも今は、その気持ちいい感覚がわからなくなっている。だからみんな無理をしてしまう。そして、無理をしていること自体もわからない」
どうしてこうなったのだろう。
「世の中がきちんとシステム化したからです。システムの一部になると、全体に合わせてしまうでしょう。日本の人は特に律儀に合わせますから。テレビだって分秒を争って真面目に放送している。ニュースの時間に、『今日の番組はこれで終わります。あとはお茶でも飲んでゆっくりしてください』とはならない。だから、世の中って分秒きちんとしなくちゃいけないもんだと思ってしまう」
自然の中で人を気にせず、ぼんやりと過ごそう
ちょうどいい感覚、バランスを取り戻したいと、我々は願う。何かいい手立てがあるのだろうか。
「ぼんやりしているのがいい。こうして、自然の中で」
しかし、そのぼんやりが難しくて、なかなかうまくできない。
「やろうやろうと思わないこと。スリランカからきたお坊さんで、瞑想の指導をしているアルボムッレ・スマナサーラさんがね、自分の動作に集中しなさいと言う。今、右足を動かした、左足を動かした、と集中していると悩みを忘れると。5分で効いてくるらしい」
これならすぐに試せそうだ。
「対人の世界が普通になった今、一番かわいそうなのは子供です。親がどう言った、先生が、友達がって、常にまわりを気にしながら育っている。大切なのは、人のことを気にしないでいられる状況を作るということ。“人は状況次第”と、いうことを案外忘れているのではないですか」
忘れるどころか、目から鱗……。
「物事は自分の都合で動かすのじゃなくて、ひとりでにそうなるのが一番無理がない。具合が悪いと思ったら、具合が良くなるようにするでしょう。頭で考えないことです。たまにはこういう自然の中に来て、『み〜んな関係ないや〜っ』って、ごろんと寝そべってみればいい」
モンシロチョウが飛び交うタンポポの上で、空を見上げて大の字になるのだ。そして、気配を消す。大人にだって効き目がある。きっと、ある。
今春に出版した『子どもが心配』でも先生は、「子供は自然であって、自然はひとりでに展開していくもの」と、綴っている。
「自分と関係なく万象が動いているんだから、成り行き任せでいいわけです。変に自分でなんとかできると思わないで、なるようになるさでいいんだよ。虫や猫のように、ね」
ケセラセラ。なんだかふっと肩の力が抜けてくる。
転地にふさわしい場がそこここにある鎌倉
「一番いいのは、状況を変えることです。昔の医学では、喘息になるとよく転地を勧めたものです。
場所を変えると体の調子が変わるから、頭の調子も変わるんです。つまり、全体が変わる。別に遠くへ行かなくても、街のなかにいてもいろんなところがあるでしょう。僕は東大に勤めていた時、駅前の喫茶店によく行きましたよ」
転地とは、空気のいいところへ行くという意味だけではないのだ。
「散歩は小さな転地です」
山、海、神社仏閣、坂道、切通し、街のなか。そして馴染みの店。鎌倉は小さな転地に、この上なくふさわしい!
「学生時代もしょっちゅう歩いていました。特にあちこちの路地。昔はお屋敷が多く、静かで緑があって歩くのにちょうどよかった。勉強も歩きながらした。ものを考える時に歩くのはいいんです。今も、詰まると、歩く」
鎌倉を離れない理由は、「土地勘のある場所だから」と話すが、歩き慣れた街、だからなのだろう。
先生が慣れ親しむ道は、まず、建長寺へ向かう亀ケ谷(かめがやつ)坂切通し。境内には先生が作った虫塚があり、毎年6月4日の虫の日に法要がある(参加自由)。
また、大仏方面や天園方面へ続くハイキングコース。神社仏閣では子供の頃から通っている鶴岡八幡宮と、よく立ち寄る寿福寺の名が上がるが、ん?どこも虫がいそうな?
「虫がいる場所には自然が残っています。そんな鎌倉らしい道を歩きます」
取材・文=松井一恵 撮影=オカダタカオ
『散歩の達人』2022年6月号より