アメコミを完全に日本人として咀嚼した絵

終わりたいのに終われない大人の事情が無駄な延命を図った結果、多くのファンが大団円を見届ける前に去っていった。実はいまだに最終回を読んでいない人が多いだろうからここに記しておく。

歳月が流れて、ブルマは初老を迎えている。しかし悟空やベジータのサイヤ人はいつまでも若いまま。「サイヤ人は戦闘民族だ。闘うために若い時代が長いんだ」と、ベジータは老けた妻に説明する。本来ならここに悲哀が入ってもいいはずだが、鳥山作品の性質上、描かなかった。僕は鼻白むものがあった。

一個の惑星の生物をすべて殺戮させるほどの戦闘能力を持ちながら、しかも不老長寿だって? それに神龍のおかげで何度も蘇らせてもらえる。誰がそんなキャラクターに自己投影はもちろん、憧憬を持つだろうか。

『ドラゴンボール』と『あしたのジョー』をストーリーで比較してみたい。《不良少年矢吹丈は丹下段平と出会う。少年院を出所後プロボクサーになるが、ライバルの力石徹を試合で殺してしまう。失意から再起し、数々のライバルと出会い、世界タイトルマッチでホセ・メンドーサとの戦いの後、真っ白な灰になる》。

・・・思いっきり端折ましたがだいたいこんなストーリーラインです。

ところがドラゴンボールは、《悟空が次から次へと現れる強い敵と戦う》で説明が済んでしまう。ストーリーなどないに等しい。『ドラゴンボール』のキャラクターは今も絶大な人気を誇る。「オス!オラ悟空」「みんなこのオラにほんのちょっとずつだけ元気をわけてくれ」といった名セリフ、かめはめ波などの必殺技や名シーンはあるものの、山あり谷ありの実人生はない。

僕は以前にも当連載で「『タッチ』は『あしたのジョー』である」という回を書いた。今回も『あしたのジョー』に最大級の賛辞を送るような書き方になっているが、正直なところ『ジョー』より好きで思い入れのあるマンガはいっぱいある。しかし『あしたのジョー』は、ギリシャ神話、聖書、シェークスピアと肩を並べる「ストーリーの原型」であることは歴史的事実だ。

話を戻す。ではなぜ鳥山明は国民的マンガ家にまで成功したのか? それはひとえにアメコミを完全に日本人として咀 嚼したあの絵。ドラクエシリーズが大ヒットしたのも鳥山明が描くキャラがあってこそ。

もちろん僕は『ドラゴンボール』を全否定しているわけではない。11年間に及ぶ週刊誌連載は地獄の苦しみだったに違いない。考えながら走るしんどさに、金持ちになり、モチベーションを失った天才はソフトランディングするのが精いっぱいだった。「真っ白に燃え尽きた」鳥山明がジャンプで長期連載を始める日は永遠に訪れない。

現在もドラゴンボールはテレビアニメとして『GT』『改』『超』と、原作とは独立したキャラクターとストーリーが放映中だ。『ガンダム』や『スターウォーズ』同様、続編や前日譚(プリクエル)やリメイクやスピンオフといった神話の続きが今後も描かれていくだろう。名作にはならなかったけどキャラクターは残ることになりそうだ。

手厳しいものになってしまった。このテキストに異論反論したい人は多いだろう。鳥山明とイチローが落とした莫大な税金のおかげで有数のハコ物が建てられた愛知県人は特に。みんなそれぞれ自分の『ドラゴンボール』愛を語ればいいと思う。

 

あーでもとやかく書いたけど、今回20 年ぶりに全巻読み直してみたらやっぱり面白いんだよねえ。

文=樋口毅宏 イラスト=サカモトトシカズ
『散歩の達人』2019年11月号より