いろんな大人が立っていた、小学校の裏門
その日のきっかけは、小学校の裏門での出来事。校門って昔はだいぶにぎやかでしたね。登下校の子供たちをあてこんで、いろんな大人が立っていました。よくも学校が許可したなと今なら思いますが、長テーブルを出しておばちゃんが学習雑誌を売る日なんかがありました。その日になると内容なんぞそっちのけ、太い輪ゴムで留まった分厚い付録めがけて、ジャイアンツかライオンズの野球帽かぶった子供らが殺到します。「学習」「科学」と二種類あって、片方買う子、両方買う子といました。一応、理科の実験教材……みたいなタテマエはありますが、実質は紙やゴム、プラスチックでギミックを仕込んだ、おもちゃ。
またある日、ニコニコしたお兄さんが立ち、子供らを家へと誘っていました。「行くと漫画とお菓子がもらえるし、ぜんぜん危なくないよ」と常連の子たちは力説します。普通に、危ない。ビビりの私は行きませんでしたが、行った子からお菓子と共にもらったという漫画パンフレットをコッソリ見せてもらうと……見開き一杯の劇画調、戦争か天災で破滅した終末の世界がおどろおどろしく広がっていました。お菓子を貰い続けるためには、これらを見たことももらったことも親に言ってはいけません。なにを教え説くための勧誘だったか知りませんが、当時でも、もう完全にアウト。
映画の割引券を握りしめて隣町へ
そうしてもう一人、小柄なおっちゃんが満面の笑みを湛えて立っている日があったのです。姿を現すのは決まって季節ごとの長期休みの前。手に細長く、ペラッペラの映画の割引券を持って。そこには大きく太字で、「東映まんがまつり」とあり、刷り込まれた笑顔のドラえもんが映画館へといざなうのでした。
ドラえもんっ子の私は、おっちゃんから一枚受け取るとシワひとつつけず家の机の引き出しにしまい、休みに入ると券を握りしめバスで隣町へ。まだバスの床は板張り。黒々と塗られた油の匂いを覚えています。濁った川のほとりの小さな映画館に着くと、昭和末期でもすでに相当くたびれていて、まつりのはずが子供は少なく、なんだか少し怖い。でも映画がはじまればそんなこと関係なし。
――さあはじまりました。劇場版のび太、いつも通りだらしない。けれど、困っている子がいたら必ず気が付いて、手を貸そうとします。相談を受けたドラえもんは、のび太の気付きを絶対に受け流さず、22世紀の英知を使って、彼と困った子たちを支えながら事態に深く介入していきます。悪漢たちによって事態は徐々に暗転していきますが、乗り掛かった舟のドラえもん一統、ジャイアンは豪気を、スネ夫は不安を押し殺し、追い込まれたのび太は肚を決め、決然と悪に立ち向かうのでした。
ほこりの舞う真っ暗闇のなか、スクリーン釘付けの冴えない少年はこのとき、己れをのび太に投影し、間違いなく勇気や愛、チームワークを受け取ったのです。ところが家に帰ればコロっともう、横暴なジャイアン、狡猾なスネ夫、だらしないのび太を混ぜ合わせた少年に戻っています。
ドラえもんは、もういない
それから数年、教材のおばちゃんも割引券のおっちゃんも変な勧誘のお兄さんもいなくなりました。子供の減った小学校は統合されて、裏門自体、もうないのです。映画館もとっくに閉館しています。ためしに今ストリートビューで見てみたら、驚くことに看板の一部がぶらさがったまま建物は残ってるじゃないですか。もぎりのおばちゃんがいたあたりには、年配の方が世話をしているのか、鉢植えの花が並んでいました。
ああ、僕はーどうして大人になるんだろう――。
……さ、若き武田さんはフィニッシュまで歌い終えましたよ。ラジオを切って、事務所に用意していた税金の振込用紙をピックアップして、疲れた大人は再び階段を駆け下りねばなりません。大人は追われます。ドラえもんもいません。それでも、何かあれば大事な誰かを守る、そんな気持ちだけは、わずかにこの心に、消えずに残ったように思います。
文=フリート横田