植木鉢も切られた木も、人に干渉された存在
街なかで、幹がブツッと切られている庭木や街路樹を見かけたことはないだろうか。かつては家の一角を緑で彩っていただろう木々たちが、切られた状態で残っているのを見かけると、どこか哀愁を感じる。
木村りべかさんは、これまで600本以上もの「切られた木」を写真に収めてきた。
多くの人にとって、わざわざ目を留める対象ではないかもしれない「切られた木」。木村さんの視点で切り取られ、ずらりと並ぶと、不思議な存在に見えてくる。
「はじめて撮ったのは2011年でした。当初はあまり意識して撮ったわけではなく、『変な形の木だな』という程度でした。根っこが張っている木は撤去するのも困難。一苦労して切った状態が庭先にずっと残っているっていうのが、景色として面白いなと気になったんです」
「2008年頃からずっと、街なかの植木鉢の写真を撮り続けてきました。植木鉢の中でも好んで撮っていたのは、育て主が我が子を育てるかのように丁寧に手をかけて、葉っぱがイキイキと茂っていたり置物や造花で装飾が施されていたりする、元気なもの。
『切られた木』を意識した時、植木鉢とは真逆の物体を見せつけられているようで、結構強烈な印象だったんです。『なにこれ、死んでる』って」
「でも、植木鉢も切られた木も“干渉されている”という点では同じなんですよね。人に強制的に終わりにさせられている木は、植木鉢と同じか、それ以上に人に手をかけられています。後から考えてみると、そういった点でも気になっていたのかもしれません」
「木が切られるまで」の、人と植物との物語
ひとくちに「切られた木」といっても、その姿は千差万別。切られた状態から人の気配を感じることもあるそうだ。
「色々と見ていくと、塀の高さに合わせて切っていたり、塀の上からちょこっと顔を出していたりと、家によって高さが違うんです。人柄が滲み出ているというか、人間らしさを感じますね。
背が高ければ高いほど、その家の人が木に対して愛着を抱いていそうだな、と想像します。逆に短い状態だと、残したくない理由があるんだろうな、とか。ステーキみたいに断面に切り込みが入っていると、『絶対生えてこないで』という撤去したい気持ちや困り具合が垣間見えてきます」
切られる対象となる木は、街路樹や庭木といった意図して植えられたものもあれば、どこからか種が飛んできて家主の知らぬ間に育ってしまった木もある。
「夫の実家を訪れた際、まさに木が切られる瞬間に立ち会いました。駐車場の一角に種が飛んできて木が生えて、最初のうちはきれいだなとそのままにしていたそうですが、大きくなるにつれて車がぶつかるようになって、邪魔だからと切ったんです。同じ時期に私の自宅でも、勝手に生えてきた木を切りました。
『切られた木』には自分で植えたわけじゃなく勝手に生えてきちゃう木も多そうだな、と気づきましたね」
周りに何もない場所ならともかく、敷地の境界部分であったり、頻繁に車や人が出入りする場所だと、トラブルや怪我の原因にもなりかねない。
「切られた木は住宅地に多い」というのも、木村さんの分析だ。
「家が集まっている場所だと、道路に出ないように、隣の家に侵入しないように、などトラブルにならないよう切ることが多いのかな、と思います。ビルやマンションが多い都心では、あまり『切られた木』は見かけないようにも思います。そもそも木が生える余裕のある土地じゃないと、切るぐらいのサイズまで育つことができないので。
これまで訪れた中では、東京の国立市や江戸川区、群馬の高崎市など、都心から少し離れた住宅地で特に多く見かけましたね」
公園の木や街路樹などの場合、区画整備などの管理に伴って「切られた木」が大量発生する場合もある。しかし木村さんが惹かれるのは、育てている人の生活が透けて見えるような木だという。
「木が生えて、育って、切られるまでの間に、育て主と木との長い関係があると思うんです。最初は『あ、生えてる生えてる』って、小さな命が育っていくのが嬉しかったはず。それが『あれ、大きくなってきたな』『こんなに育っちゃって困ったな』というふうに、『かわいい』から『怖い』に切り替わる時期がくると思うんです。
でも木に対しての愛着が多少なりともないと、大きくなるまで放っておかない気がするので、切る際の忍びなさ、木が切られるまでの背景を想像すると、愛らしく思えてきます。決して派手な存在ではないけれど、そこに至るまでの長い時間の積み重ねが感じられるんです」
今は切られていても、かつては葉が茂り、シンボルツリーとして家を賑やかしていた時期があったことだろう。
「どうしよう」と逡巡(しゅんじゅん)しながらも完全には切ってしまわない。そのゆるいグレーゾーンが魅力だ。
「グレーゾーンがあると安心します。割り切れなさっていいですよね。雨風に当たって見た目がくたびれてきても、捨てるに捨てられず、ただそこに『ある』だけ。ある日突然なくなっても誰も困らないかもしれない。
そんな悲しくも嬉しくもない、ただ時間の流れを感じる佇まいも『切られた木』の良さだと思います」
定点観測で変化を見届ける
同じ木でも、定点観測を続けると変化していく場合がある。
「この木は、周りを掘られて断面も刻まれて二度と育たないようにさせられていました。掘り返そうとしたんだけど、根っこが強くて一旦お休みしたんでしょうね。
9ヶ月後にまた訪れてみたら、木はなくなって花壇になっていました。こうやって定点観測すると面白いんですよ」
しばらく経って訪れてみたら切られたところから葉が出ていたりと、木自体の生命の巡りを感じる変化もある。
「切れらた木」をこれから鑑賞してみたい、という人に対しても、こういった定点観測はおすすめの方法だそう。
「ご近所で切られた木を見つけたら、定点観測してみるのがおすすめです。そんなに代わり映えはしないかもしれませんが、暖かくなったら芽吹いたり、周りが変わったりと、ある日ちょっと変化しているかもしれません。
写真を撮る時は角度を決めると、並べたときに見やすくておすすめです。私は、木を真正面に入れる構図で撮っています」
「切られた木」は狙って出会えるものではない。それだけに、偶然の出会いや変化が楽しい。本来の枝葉を伸ばした状態ではない姿ゆえ、妄想を重ねて鑑賞するといった想像の余地もある。
「『もし切られていなかったら』というのも、時々想像するんです。何十メートルも伸びてるのかな、そしたらここに日陰ができているかな、って」
「#切られた木」というハッシュタグを使ってSNS上で発信を続けたところ、今では多くの投稿が集まるようになったという。
じつは筆者も投稿したことがある。視界には入っていてもさほど気に留めることのなかった存在だっただけに、木村さんの視点によって「切られた木」が自分の意識の中で顕在化した時の衝撃は大きかった。
切られて働かされるシュロ#切られた木 pic.twitter.com/KDRit4ytKn
— 路上園芸学会 | Ayako Murata (@botaworks) July 22, 2020
「色んな人が、『#切られた木』というハッシュタグで写真をアップしてくれています。思いも寄らない『なんだこれは』っていうものがあったり、人によって見方が違ったりするのが面白いですね。自分じゃ見られない景色をもっと見せてもらいたいなと思っているので、ハッシュタグが広がったら嬉しいです。
英語では『#cuttree』っていうハッシュタグが既にあるんですよ。クリスマスツリーや木材を伐採する業者のアカウントなど、私が撮っているのとは性格が違うものもあるんですが、『みんな色んな理由で木を切ってるんだな』と思いますね。いずれ、世界中の『切られた木』を見てみたいです」
木村さんのお話を伺うまでは、どこか切ない印象のあった「切られた木」。
しかし、切られるまでの経緯や、育て主の逡巡といったことにまで思いを馳せてみると、実は人と植物との関係性を確かに感じさせる存在だった。
取材・構成=村田あやこ
※記事内の写真はすべて木村さん提供