近くを通りながら気がつかなかったレンガ造りの別荘の廃屋
『竹内農場西洋館』は、常磐線龍ケ崎市駅(旧佐貫駅)からニュータウン長山行き路線バスに乗り、終点から徒歩10分くらい。車だと圏央道牛久阿見ICからバイパス道を走って、長山北交差点を右折します。女化(おなばけ)町と竜ヶ崎市の境界にあり、付近の目印は蛇沼公園と女化稲荷神社となります。
『竹内農場西洋館』と言っても、ピンとくる方は少ないかと思われます。私もここを知るまでピンときませんでした。それでは、西洋館の遺構をお見せしながら、現地で知ったことと、後に調べたことを紹介しましょう。
西洋館は竹内家の別荘で、竹内家は明治〜昭和初期に隆盛を極めた実業家です。江戸時代末期の土佐山内家に使える家臣の竹内綱(つな)は、明治時代になると政界と実業家で活躍し、鉱山開発や京釜鉄道、常総鉄道といった鉄道事業にも関わります。
綱の長男である竹内明太郎(めいたろう)は父の意思を引継ぎ、全国の鉱山開発のために竹内鉱業株式会社を設立します。なお明太郎の弟(五男)は茂といい、竹内綱と親交の深かった実業家の吉田家へ養子となって吉田茂となり、戦後すぐの内閣総理大臣となりました。
明太郎は鉱山用機械の国内生産化事業を展開し、石川県小松市の遊泉寺銅山に小松鉄工所を設立。この会社は後年、ショベルカーやフォークリフトといった建設機械大手のコマツとなります。また明治末期には、国産自動車を製造する快進社の創業に携わり、国産自動車ダット(DAT)号が生まれます。DATは、支援者の田健治郎、青山禄郎、竹内明太郎の頭文字から取り、DATSUNの名で自動車を製造。後の日産自動車となります。
こうして、明太郎は現在にも続く企業の礎をつくってきましたが、第一次世界大戦後の炭鉱不況や昭和恐慌の煽りを受けて竹内鉱業は傾き、明太郎が昭和3年(1928)に病でこの世を去ると、竹内鉱業は廃業となりました。
炭鉱労働者に提供する農産物生産のための竹内農場に別荘が建造された
竹内鉱業は明治大正と、華やかな時代を迎えていました。竹内綱が経営していた茨城無煙炭鉱株式会社は北茨城に鉱山を持ち、明治末期に明太郎が社長に就任すると鉱区が拡大されました。当時としては珍しく労働者の労働環境改善にも熱心で、労働者に提供する農産物も自前で安定供給しようと大正元年(1912)に官有地を購入して開墾されたのが竹内農場です。
その場所は女化原(おなばけはら)と呼ばれる未開地で、蛇沼という沼がありました。その荒地を開墾し、炭鉱への食糧補給として麦や馬鈴薯など農産物を生産し、常磐線で運ばれていきました。竹内農場は食料安定供給のほか、西洋式の近代的な農場経営の実験でもあったとのことです。
竹内農場には竹内明太郎の別荘が建てられました。それが、このレンガ造りの建物です。竣工は大正9年(1920)のこと。平屋と二階建て、地下室も設けられました。二階には木造のバルコニーが玄関部分を覆い、平屋部分は蚕室(さんしつ)だったそうです。
部屋は二階が三部屋。一階の西側は蚕室で、東側は玄関の直下に地下室、その奥に階段とホール、右手に居間と土間がありました。地下室は蚕に使用する桑を保存するためであったようです。別荘なのにお蚕を育てる蚕室とは不釣り合いな組み合わせですよね。
しかも建物の半分を蚕室で占めています。ひょっとしたら別荘ではあるけれども、農場運営の一環として養蚕も行われていたとか、農場へ訪れたゲストに養蚕を見せていたとか。何かしら理由があったと推測できます。
使用されたレンガは、深谷市上敷免の日本煉瓦製造株式会社製。この会社が製造したレンガで有名なのは、東京駅丸の内駅舎です。日本煉瓦製造は、この前最終回を迎えた大河ドラマの主人公・渋沢栄一が出資に関わったことでも知られ、竹内綱が発起人として関わった京釜鉄道では、渋沢栄一も発起人に名を連ねていました。偶然だとは思いますが、レンガと鉄道と、竹内家と渋沢栄一は何かしら関わり合いがあったのでしょうか。政界や実業界で活躍していれば、何かしら接点があっても不思議ではありませんね。
農場に建つ西洋館は政財界の人々が出入りしていましたが、栄華なひとときはそんなに長くはなく、竹内明太郎が別荘として使用したのは4年程度だったそうです。竹内鉱業の廃業と共に農場も閉じ、農地は地元へと貸し出されていきました。
西洋館は主人を失ったものの、いっときは一族の方が住んでいました。が、その方も引っ越してしまうと空き家になります。戦後しばらくは復員した方が管理目的で住んでいました。ただこのときは、既に調度品など金目のものが盗まれていたそうで、雨漏りもあり、地下室を覆う一階の床も抜け落ちるほどくたびれていたようです。
やがて最後の住人が去り、西洋館はひっそりと林の中へ没していきます。瓦葺きであったという屋根は跡形もなく朽ち、レンガの壁面を残すだけとなり、家の中には立派な木が育ち、西洋館を覆い隠すかのように草木が茂り、このまま人知れず消えていきます。
長らくの放置の末、太陽光発電がきっかけで保存へと動く
林の中に没して長い月日をゆっくりと刻む西洋館。戦前の栄華をレンガの壁面に染み込ませ、時折訪れる人影は肝試しか廃墟探索くらい。しかし突然転機が訪れます。西洋館のある敷地は竹内家の所有でしたが、2014年ごろに太陽光発電会社へ売却されたのです。
西洋館のすぐ近くには太陽光パネルが設置され、レンガの建物も風前の灯となっていました。そこでNPO法人「龍ケ崎の価値ある建造物を保存する市民の会」の保存活動や、龍ケ崎市による発電会社からの土地借り受け、建物登記名義の竹内家子孫から市へ譲り受けるなど諸手続きをして、詳細な調査が行われました。
その際に、西洋館を覆い隠していた草木は刈り取られ、数十年ぶりに建物の全容が現れたのです。詳細な記録は、この調査をもとにして纏められた冊子「竹内明太郎が残したもの 龍ケ崎の赤レンガ西洋館」(2020年3月発行/NPO法人龍ケ崎の価値ある建造物を保存する市民の会)に記載されています。今回のレポは、この冊子をかなり参考にいたしました。
最初は西洋館といってもまるっきり分からなかった存在でしたが、しっかりと調査して保存する方々がいることによって、その詳細が判明できたのは嬉しかったです。
西洋館は誰でも見学できるよう、2020年に安全対策として敷地を覆うように柵が設置され、駐車場も設けられました。地下室部分など朽ちている箇所が多く、壁面には地震で発生したと思しきクラックも見受けられ、保存するにあたり修繕が必要な箇所もあります。
建物の中に入ることはできませんが、柵越しに十分見学ができるし、周囲は林に囲まれています。季節や時間帯によって様々な表情が見られ、手軽にレンガ造りの遺構を見学できます。
バイパス道路とニュータウンが隣接していながら、西洋館の場所は時が止まったかのようにシン……としていて、心が安らいでいく気持ちになってきました。朽ちたレンガ造りを眺めてそう感じるのも不思議ですが、単なる廃屋ではなく、産業の礎を築き、戦前に活躍した実業家の栄枯が詰まっていること思うと、人の歴史に触れるような、あるいは遺跡に触れるときのような、すーっと気持ちが落ち着いていく感じになるのです。
ということで、今年一年もご覧いただきありがとうございました。来年も、もっとグッとくる「廃もの」をレポしていきます。みなさん、くれぐれも体調にはお気をつけて年末年始をお迎えください。良いお年を!
取材・文・撮影=吉永陽一