ご覧の通り空っぽになったガラスケースはまるで水槽です。水を注いで魚を泳がせたらそのままアクアリウムになりそうですが、実際には水の重量や水圧、日照の問題からそんなことはできるわけもないので、ここはジョン・レノンにならって想像の水を張って想像の観賞魚を泳がせることにしましょう。
コンセプチュアルなアクアリウムが頭の中で完成しました。
見事なまでに大型の一枚ガラスの水槽型掲示板ですがその中身は空っぽです。
よく見ると老朽化してフレームの下の方に隙間ができています。
文字の魚たちも流れ出してしまったのかもしれませんが、それでもまだデーンと構えて新しい掲示物が張られるのを待っています。
「ご案内」と書かれたガラス張りのケースの中には白い帯が一本。普段なら式場を使う家族の名前が記されるところでしょうが、この日の利用はありません。
まるで蒸発して干上がったようにただ水槽だけが取り残されていました。
水槽にたとえるにはちょっと奥行きが足りないのが惜しいところですが、中が空っぽの一枚ガラスの頑強な掲示板のマッチョな姿に足が止まりました。
左右幅ぴったりのブルーの台座、フレームの角を斜めに落とした屋根代わりの造形など金属彫刻を思わせるフォルムはなかなかの出来栄えです。
ほこりと汚れを拭って磨いてあげれば、このまま中身をデジタルサイネージに変更してもまったく遜色なさそう。無言板になったおかげで優れたデザインが映えるとは皮肉なものです。
地下鉄の階段の踊り場にあるこの広告掲示板。クライアントが撤退すると、通常なら白いガラスが入るところですが、調達できなかったのか透明なガラスがはめられていました。照明の入った広告板の中をこうして覗くことは珍しく、光を均等にまわすために4本の蛍光管がこのような位置にレイアウトされているという事実にいたく感心もさせられるのですが、すでにLEDが照明器具の主流となった今、これは早晩製造打ち切りの運命にある蛍光灯の最後の姿を保存した展示ケースのように思えてきました。
現代美術の好きな方ならダン・フレイヴィンの蛍光灯を使った作品をご存知だと思いますが、収蔵する美術館はいずれ蛍光灯が市場から消えることを見越して品質の良い蛍光管を大量にストックしているそうです。
地下通路によくあるショーウィンドウもかつてはインスタレーションのように工夫を凝らした立体ディスプレイで華やかでしたが、景気後退が続いた結果いまは見ての通りのがらんどうです。スケール的に水族館の水槽を思わせますが、こうも空っぽの状態が続くと寂しさが募ります。
人通りもまばらになった地下通路に佇み、ふと目を床に向けるとタイルの柄がパズルゲームのブロックピースのようにも(正確には配列がちょっと違います)、枯山水の置石のレイアウトのようにも見えてきました。
禅寺の石庭のごとく時空を超越したこの場所で、都会の喧騒からしばし逃れて瞑想します。ここに空(くう)あり。空に無ありと。
文・写真=楠見清