通称・谷根千は、谷中・千駄木・根津が一括りにされているエリア。『東京散歩地図』によるとそれぞれに街の個性が光る下町の人気エリア、と書いてある。最後は谷中ぎんざでエルボーにきれいな夕焼けを見せてやろう。ロマンチックな雰囲気になって……、なんてことになるかもしれない。ぐふふ。
歴史ある家屋の価値ってどうやって導き出せばいい?
地下鉄根津駅を出たところ。不忍通りと言問通りの交差点で、エルボーと待ち合わせた。
昼下がり。今日もいい天気だ。
そして今日も、彼女はスニーカー。
前回の「逃げ足」を、ふと思い出す。
……ちくしょう!!
交差点界隈から、谷中方面、言問通り方面に行く。「なんかイイ感じのおせんべい屋さんだね」というので、寄ってみることにした。『大黒屋』というお店らしい。
せっかくだから買ってみようかな、とエルボーは財布を取り出す。
そこから小銭を取り出し、大きなせんべいを買った。
「わ、2枚入ってる。」
……お?
「食べる?」
……え、オレも食べていいの?
「食べる」という意味も色々ある。
そうだ。気持ちが動いてるんだ、エルボーは。
エルボーはオレのことが好きになってきたに違いない。
せんべい屋の店先で、恋が深まる予感にオレはおびえる。
言問通りは『大黒屋』を過ぎたあたりから坂になっている。「善光寺坂」というらしい。この坂を上っていけば寛永寺界隈の上野の山。つまり地形で考えると、根津は谷だ。エルボーと待ち合わせた不忍通りと言問通りの交差点が谷底なのかも。不忍通りを南に行けば、不忍池だ。
建物がすげー。『下町風俗資料館』のホームページによると、
「この付設展示場は、谷中6丁目で江戸時代から代々酒屋を営んでいた「吉田屋」の建物を現在地に移築したものです。 明治43年に建てられた建物は、腕木より軒桁が張り出している出桁(だしげた)造で、また正面入口には板戸と格子戸の上げ下げで開閉する揚戸(あげと)が設けられています。いずれも江戸中期から明治時代の商家建築の特徴を示すものです。」
ほほぉ〜。出桁造りか。
……よくわからん。
「江戸中期から明治時代の商家建築の特徴」ということで、縦横無尽にゴージャスな木材が、ふんだんに使われている。
こんなのいま、建てられないよな〜。再建も無理っぽい。そこでオレは宅建士らしく「これいま作ったらいくらくらいカネがかかるんだろ?」と考えた。
ここで宅建ワンポイント「 不動産の鑑定評価の手法」
不動産の価値(価格)はいくらか。その算定の段取りを取り決めているのが「不動産鑑定評価基準」だ。宅建試験でも出題される。この基準に基づく不動産の鑑定評価の手法は以下の3つ。
原価法:「いま作ったらいくらか」という原価に着目する手法。
取引事例比較法:おなじような物件の取引価格に着目する手法。
収益還元法:「賃貸に出したらどれくらい稼げるか」という収益力に着目する手法。
これらの手法を駆使して算定することになるんだけど、最近の建物とかだったら、なんなくこれらの手法を使えるけど「江戸中期から明治時代の商家」なんてことになると、果たしてどうか。
まず使えないのが取引事例比較法か。おなじような建物が、そもそも存在しないし、仮に存在したとしても「あ、すみません、この商家を買いたいんですけど」みたいな取引事例があるとは思えない。
収益還元法はどうか。使えなくもないんだろうけど、果たして借り手がいるだろうか。借りたとして、家賃はどれくらいとれるのか? その家賃であと何年くらい賃貸できるのか(耐用年数)。このあたりのことが想定できないと難しい。
最後の砦、原価法はどうだ。このゴージャスな木材をふんだんに使いまくった「江戸中期から明治時代の商家」。資材はもちろんのこと、人件費も考慮しなければならない。重機のない時代、まさに人海戦術で、長い時間をかけて多くの人の手作業で建築したのであろうこの商家。はたして商家の「原価」はいくらか。
……そんなもんわかるかっ(笑)!! とまあ最終的に投げ出しはしますが、不動産評価方法はこんな感じです。
ちなみによく聞く話だけど、こうした江戸時代からの「建物やモノが残っているという街」はきわめて貴重で、それが魅力の谷根千界隈と。なぜ昔からの建物やモノが残っているかといえば「戦争で燃えなかったから」らしい。なるほどやはり、とオレは思った。
「道」と「住宅地」はどうやって整備する?
というのもね、じつはオレは、かなりマニアックな「大東京戦災焼失地図(復刻版)」という地図を持っていてね。この地図はその名のとおり、かつての米軍の空襲で「焼失した区域の地図」で、焼失区域は朱色に塗られている。その地図を見れは一目瞭然なんだけど、東京のほとんどは朱色。でもね、ほんの少し「白」で残っている地域がある。それがいまオレたちがいるあたりなのかな。上野寛永寺あたりの界隈。あと「白」で残っているのは皇居界隈と、墨田区の京島界隈くらいだ。
宅建ワンポイント「都市計画と震災・戦災」
ご存知のとおり、東京は過去2回、関東大震災と東京大空襲で壊滅的な状況になり、そこからの復興で、大きく姿かたちが変わった。その復興にあたり、都市計画で採用された手法は「土地区画整理事業」。土地区画整理事業はその名のとおり、ある程度の広大な土地を「街」として機能するよう区画割りをしていく事業で、道幅の広い道路や住民の憩いとなる公園を計画的に作りつつ住宅地の総合的に整備していく。
ひらたくいうと、狭くて曲がりくねった道路に面した不整形でグチャグチャな住宅地をすっきりと整形して、救急車や消防車もちゃんと入ってこられるよう、防災上も安全な街を作ろうというもの。
ちなみにこの土地区画整理事業は、市街地整備を行う代表的な手法として広く活用されており、全国で約40万ヘクタールの市街地(全国の市街地の3分の1くらいの規模に相当)がこの事業により整備されたとのこと。で、東京の街並みの話に戻るけど、昔ながらの街並みは震災と戦災でどうなったのか。
まず1923年(大正12年)の関東大震災の復興過程で、江戸の町割りなどの江戸情緒は刷新。
それから20年も経たないうちに、今度は空襲により再び焼け野原。その復興過程で江戸情緒は完全に消滅。
ちなみに、関東大震災からの復興のための都市計画は「震災復興都市計画」、東京大空襲からの復興のための都市計画は「戦災復興都市計画」と言われている。
そうだ、このあたりの知識をエルボーにひけらかそうではないか。
「ねぇねぇエルボー、あのさ……。」
あれ、エルボーがいない。
と思ったらおじさんと話をしている。『下町風俗資料館』のおじさんだ。
なにやらとても楽しそうなので二人に近づき、オレもいっしょに。おじさんの説明トークを聴く。このおじさんのトークが、説明が、ほんとに絶品。めっちゃおもしろい。こないだのカメおじさんもそうだったけど、エルボーはこうして「いいおじさん」を引き寄せるチカラがあるのだろうか。
「道」はプランを作ってから造るのです。
よし、次はカフェに行こう。カフェに向かう途中、道路の幅が広くなったり狭くなったりしているのがわかるだろうか。
いわずもがなだけど、街には道路が必要。でも道路なんて自然にできるわけじゃない。狭い道幅を広げたい!と思ったとしても「都市計画法」による都市計画でプランを定めてから、都市計画事業(公共事業)として実施していく必要がある。
もちろんそんなにかんたんに話が進むものでもなく、通常は計画から開通まで、とても長い時間がかかるのだ。
宅建ワイポイント 「道はどうやってできるのか」
まず、都市の骨格となる施設を「都市施設」という。道路や都市高速鉄道などの交通施設や、水道・電気・ガスの供給施設や処理施設など。官公庁施設や公園や緑地などの公共空地も含まれる。
まさに都市に必要な施設なんだけど、これらの施設が勝手に整備されるわけもなく、都市計画法などで自治体が公的に建設していくことになる。段取りとしては、まず「都市計画決定」。プランの策定だ。そのプランが実現可能となってきたら「事業決定」。実際に建設が始まるのはこれが決まってからになる。
たとえば……。
いまをときめく虎ノ門ヒルズ界隈。立派な「新虎通り」(環状2号線の新橋から虎ノ門の愛称名)も開通。地下鉄の新駅もできて、通りを見上げればドドーンと超高層ビルがそびえたつ。そしてこの「新虎通り」は、かつてマッカーサー道路と言われていた。
そうです。あのマッカーサーです。
なぜマッカーサー道路なのか? この疑問にも関係するんだけど、さて問題。「ここを道路にしよう」という都市計画は、いつ決定されたのか。
そうです。戦災復興です。1946年(昭和21年)の終戦直後に計画が立てられた。
「当時の最高権力者マッカーサーがここを道路にすると決定した」という説に基づくのです。実際は関係なかったみたいなんだけど、しばし都市伝説的に「幻のマッカーサー道路」と言われていた。ちなみにアタマに「幻」がついてる理由は「そりゃ都市計画決定されただろうけど、でも実際にここの工事なんてしないでしょ~」とみんなが思っていたから。「幻」と思われるくらいだから、都市計画が存在していても人々は界隈に建物を建てて暮らし始めていた。
ところがそれから60年以上過ぎたある日突然、事業計画決定となったのだ。立ち退きだのなんだの、そりゃすったもんだもあったんだろうね。
そんな経緯を経て2014年(平成26年)にマッカーサーは「新虎」となったのであった。
ここは『喫茶ニカイ』。これがまた、かっちょええーーー!!! 居心地がよくて、まるで、ぜんぜん別の時間が流れているようだ。なんか今日はせんべいを分けて食ったあたりから気分がいいので、リッチにクリームソーダとフレンチトーストのセットを頼んでしまえ。
「えっ、クリームソーダフレンチトーストのセットを頼むの?」
「ま、せっかっくだから食ってみようぜ」
あ、いかん。うっかり、オレは言ってしまった。
食ってみようぜ。
もういちど言っておこう。
食うには、いろんな意味がある。察知されたらどうしよう。
オレは爆発寸前だ。
だが、このへんにラブホはない。
まぁ待て。
オレは自分にこう言い聞かせる。
焦っちゃ、ダメ。
そうこうしているうちに、セットが来た。
「おおおーーーっ!!!」
「わぁ、すごーいーー!!!!」
「食べる前は甘すぎて嫌になるかなって正直思ってたけど。クリームソーダの方のアイスもスッキリしてるから、両方でもぜんぜんいけちゃうんだね」
そんなこんなでオレたちはペロっとたいらげちまった。
とりあえず次は「和ものが好き」と言っていたエルボーを『菊寿堂いせ辰谷中本店』に連れて行った。
「道」になるのは暗渠?それとも開渠?
彼女は興味深そうに、大きな千代紙を見ている。すごい種類があるんだな。
店を出て道なり千駄木方面に少し行って左に曲がると「へび道」という変わった道がある。千駄木の高台から根津方面に下る感じになる。細くてクネクネ、本当にへびみたいな道だ。そこに車が入ってくる。
もちろん慣れた人たちなんだろうけど、なんなく車は細い道を左折していった。
なんでこんなに道がクネクネしているかというと、その昔、ここは田端のほうから流れてきた藍染川という川で、その面影を残して路地にしているかららしい。藍染川はどこに行っちゃったかというと、この「へび道」の下に水路があって、その水路に流れているとのこと。つまり藍染川は地下鉄みたいになっちゃったんですね。藍染川にフタをして「へび道」にしちゃったという言い方もできるかな。
ちなみに、この地下の水路のことを暗渠(あんきょ)という。暗渠となった藍染川は、根津の谷から上野不忍池の方へ、いまも流れているそうだ。
宅建ワインポイント「暗渠(あんきょ)と開渠(かいきょ)」
暗渠も開渠も「水路」で、ざっくりいうと、フタがしてあれば暗渠、フタがなくて川みたいになっていれば開渠だ。もちろん日常生活では暗渠も開渠もあんまり関係ないんだけど、不動産取引をする段になると暗渠や開渠が、ちょこっと関連してくることがある。
それはどんな局面かというと、道路の道幅。
建築基準法では「道路」は幅員(道幅)4m以上でなければならない。そして建築物の敷地は「道路」に2m以上接している必要がある。
つまり、もしも土地に接している道が「道路」にならない「4m未満の単なる道」だったら、その土地には建物は建てられないのだ。では道の脇に水路があった場合、その水路は道路の幅員に含まれるかどうか。
そうです、開渠だったら含まれない。その水路の上を歩けないからね。でも同じ水路でも暗渠となって道路と一体的に管理されている場合は、幅員の一部にできるのが一般的というわけだ。
遊郭ができるまでと廃れるまで
次は『根津神社』。なじみはないんだけど『東京散歩地図』に載ってたので、とりあえず行ってみた。
「広いね。」「そうね。」
事実上なにも言ってない会話が弾む。
1900年前に建立された根津神社。界隈は根津遊郭として栄えたそうで、そうそう、『東京散歩地図』にも「江戸時代には根津遊郭もでき、明治時代には文豪の坪内逍遥も足繁く通い、後に根津遊郭の遊女を妻に迎える」とあるんですよ。
ではここで、試験には出ない宅建ワインポイント。
遊郭(そういうサービス店)のできあがり方
大前提:男が町に多くなる。
①根津神社の造営の際に、たくさんの大工や左官、人夫が街にやってくる。
②彼らをお客にする店(食事や寝泊まり)が街に立ち並ぶ。
③そういうお店が、「そういう接客担当」の女性を置くようになる
江戸時代は非合法の場所(岡場所という言い方もある)だったらしく、幕府の手入れもたびたびあった模様。ちなみに江戸時代での合法な場所はご存知の吉原。そうこうしているうちに明治時代になり、すると新政府はこの手のサービスを許可。以後、堂々と遊郭になる。
根津遊郭が衰退した理由
近所に大学ができた。大学生が入り浸った。それってどーなのよ?
ってなった。以上。
かくして根津遊郭は洲崎(江東区)に移転したのです。
そういえば、とふと思い出す。オレの大手不動産会社のサラリーマン時代のときの先輩が、こんなことを言っていたな。
その1:街の味わいは、そこに人が住み始めてから80年か100年くらいしないと出てこない。
その2:街づくりの開発業者(デベロッパー)がいくらカネを出しても作れないものは、商店街のにぎわい、神社仏閣、地元のお祭。
おそらく先輩もどっかの誰かからの受け売りでオレにそういったんだろうけど、谷根千界隈を歩いていると、そうなのかもなーと思えたりする。
谷根千のクライマックスは夕焼けだんだん
散歩コースとしての定番の谷根千。歩いてみて感じたことなんだけど、なんだか界隈の人口密度が高い気がする。昔ながらの路地に家々。人口密度が高いゆえ、どうしたって他人を意識しての生活となるのでしょうか。ゆえに、互いに思いやる優しさみたいなのが育まれるのかな。
ここで、かの有名な、夏目漱石の『草枕』の冒頭の一節を。
智に働けば角が立つ。情に棹さおさせば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
の例のアレです。そしてこう続くでしょ。
「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。」
身に沁みますね。
だんだん坂を登りきって、階段下の商店街を見下ろす。
そしてジャストタイミング。
……よし、きょうのデートもうまくいったな。
えーと、次のデートコースだが。東京散歩地図に従うと「根岸・入谷・竜泉」だ。
「この街、どんな街?」にはラブホテルが林立という文言が。
来た。ついに、来た。
なのでオレは、ここは押せ押せな気持ちのままに、「こんどいつデートできる?」と鼻息荒く、エルボーに聞いてみた。
「え、デートしてたっけ?」
……は?
「散歩はいっしょにしたけど」
……えええーーーっ、そんだけですかぁ〜!!!!!!
「あ、やば、もうすぐ打ち合わせの時間だ」
じゃあね、とエルボーのスニーカーが軽やかに弾む。白いスニーカーは、あっという間に雑踏に紛れていく。
「きょうも楽しかった。ありがと」
回転が上がるスニーカー。あいつ歩くの速いな!
「また明日、カフェでね」
くるっと振り向いて手を振るエルボー。
エルボーはもう振り向かなかった。
「……えええーーーっ、そんだけですかぁ〜!!!!」
かくしてオレは、だんだん夕焼けに染まっていった。
取材・文・撮影=大澤茂雄