江戸時代に創業した『船橋屋』
乳酸発酵させた小麦でんぷんで作る「くず餅」は関東を中心に親しまれ、東京の亀戸天神や池上本門寺、神奈川の川崎大師などの門前菓子として愛されてきた。
亀戸天神前に本店を構える『船橋屋』は、文化2年(1805)創業。2008年に社長に就任した渡辺雅司さんで8代目になる。
和カフェを開いたり百貨店へ出店したり、くず餅の要である乳酸菌の研究成果をサプリや商品作りに生かすなど新たなことへ挑戦する老舗という印象だ。
広報の亀田優奈さんによれば、8代目が1993年に入社して以降新しい試みが次々なされているという。外に見える形でのその大きなひとつは、8代目就任前の専務時代、『船橋屋』の創業200年目にあたる平成17年(2005)に広尾に開いた和カフェ『船橋屋こよみ』だろう。当時のインパクトは大きかった。
老舗くず餅店がモダンな和カフェを開いたと興奮して、健康的なランチを目当てに通い詰めて、帰りには小麦でんぷんを使ったくず餅プリンをお土産に買ったことを覚えている。
その一方で、大規模改修工事などを経ても亀戸天神前本店の雰囲気は全く変わらない。「本店は代々通ってくださる方が多い。変わらないお店でお迎えし、ほっとしていただきたい」と亀田さん。私も本店の佇まいが好きで長く通っている一人だ。
本店には芥川龍之介、永井荷風、吉川英治ら文豪がよく訪れたという。本店内に飾られる『船橋屋』の看板は、吉川英治の手によるものだ。東京大空襲で焼失した店舗を1953年に再建した際に看板文字をお願いしたという。
発酵期間は15カ月。
小麦粉を水でこねた生地を水で洗うと、小麦でんぷんとグルテンに分かれる。グルテンは精進料理の貴重なタンパク源である麩(ふ)の原料として使われてきた。一方の小麦でんぷんが、くず餅の原料だ。
『船橋屋』では、ヒノキの樽で15カ月間乳酸発酵させた小麦でんぷんを使う。8カ月発酵させればくず餅を作れるけれど、さらに熟成させることで弾力や歯触りが良くなるそうだ。
発酵後はでんぷんを数日かけて水洗いして余分な酸味や発酵臭を取り除き、96℃前後の湯で湯がく。
なぜ台形なの?
これを木枠へ流して蒸し上げて、台形にカットしたらできあがりだ。
『船橋屋』のくず餅が台形にカットされているのには理由がある。亀田さんによれば、1つは食べやすい大きさにカットするときに台形だと無駄が出ないから。
もう1つは皿に盛ったときに台形だとスプーンでよりすくいやすく、黒蜜ときな粉がより絡みやすいから。くず餅は箸では食べない。黒蜜ときな粉がつるつる滑って逃げてしまうのだ。
喫茶で出されるできたてのくず餅は弾力と柔らかさが絶妙だ。濃厚な自家製の黒蜜と、粗めに挽いた芳ばしいきな粉の組み合わせに和む。時代に合わせて発酵臭や酸味は控えられていて、誰もが食べやすい穏やかな風味だ。
15カ月と数日かけてできあがったくず餅は、わずか2日しかもたない。
以前は黒蜜には『船橋屋』のくず餅の中で唯一の添加物だったカラメル色素が使われていたけれど、職人さんの声を受けて使用を中止。代わりに黒糖の量を増やしたので以前よりも濃い味わいだ。
亀田さんのおすすめは、この黒蜜を使ったアイスをはさんだ「最中アイス(黒蜜)」。さっぱりとしたアイスにコクのある黒蜜がよく合う。
飲むくず餅乳酸菌
今、『船橋屋』で力を入れているのは同社が発見した「くず餅乳酸菌(R)」の活用だ。そのひとつが山梨県北杜市産の米から作るライスミルクの中でくず餅乳酸菌を培養したという「飲むくず餅乳酸菌」。
まずはくず餅とセットで店内で注文。甘酒みたいなものかなと思い飲んでみるとそれとは異なり、乳酸菌のイメージ通り酸味があり甘さは控えめだ。
持ち帰り用も販売されているのでひとつ買って帰り、家でも飲んでみた。冷やすと飲みやすいようだ。
2021年3月に同社が表参道に開いた新業態『BE:SIDE』では、この乳酸菌を使ったスイーツや飲み物が楽しめる。本店だけを知る人は雰囲気の違いに驚くだろう。『船橋屋』は革新を続ける老舗なのだ。
取材・文・撮影=原亜樹子(菓子文化研究家)