Three stars in the night town《夜の街に三連星》
Three stars in the night town《夜の街に三連星》

夜の街に浮かぶ雑居ビルの照明看板も1階から3階まで真っ白です。

テナントのいなくなったビルの看板を点灯させておく必要はないはずですが、おそらく電灯代わりなのでしょう。これを消すと真っ暗になってしまい、最上階に住むオーナーさんが出入りするのに不便なのかもしれません。

夜8時で人通りが減ると真っ暗な路地は寂しいどころか怖い場所に変わります。時短営業に加え酒類の販売まで自粛している居酒屋さんが地域の防犯のためにと毎晩明かりを灯し続けているというニュースもありました。

この真っ白な雑居ビルの看板も自らの苦境を無言で伝えながらも、ただ純粋な照明装置となって街路を照らしています。

己の〈無〉を確かめるように発光するその姿を「〈無〉確認発光物体」と名付けてみます。

Modernistic pillar lights《モダニズムの明るい柱》
Modernistic pillar lights《モダニズムの明るい柱》

地下鉄の駅の通路で多数の「〈無〉確認発光物体」に遭遇しました。

そもそも電車内や駅構内の交通広告は、世の中の広告がスマートフォンへと流れていくという逆風に対してデジタルサイネージ化で広告主をつなぎ止めていました。しかし、コロナ禍になってからテレワークやオンライン授業による通勤通学客の減少や、広告すべきイベントや旅行キャンペーン自体がなくなったことで明らかに苦境に立たされています。

気がつくと紙のポスター掲示板は空きだらけに、バックライト式の照明看板はこうして真っ白になってしまったというわけです。

埋め込み型の照明看板を消灯しないのはやはり明かりの問題でしょう。地下施設の照明の配置を設計するときに、照明看板の照度も含めて全体の明るさを計算しているので無闇に消せないわけです。

Bright light, big SNB《ブライト・ライツ・ビッグ・無言板》
Bright light, big SNB《ブライト・ライツ・ビッグ・無言板》

駅ばかりではありません。羽田空港の搭乗ゲートに向かう長い通路に並ぶ大きな広告看板も空っぽのまま光っていました。コロナ禍でなければ国内外の観光客向けの華やかな広告が並んでいたはずなのに……。

淡く白い光を放つ巨大な平面がまるでミニマル・アートの作品のようにストイックな空間を生み出していました。

Light framed nothing《光で縁取られた無》
Light framed nothing《光で縁取られた無》

再び地下鉄に戻ります。横浜市営地下鉄の駅の構内で見かけました。

1972年に開業した横浜市営地下鉄のベンチや水飲み場など駅の設備を柳宗理がデザインしたことは知る人ぞ知る真実。柳宗理といえば代表作「バタフライスツール」が美術の教科書に載っていたり、丸みを帯びたカトラリー(食器)のシリーズはいまも根強い人気のロングセラー商品だったり、20世紀の日本を代表するインダストリアルデザイナーのひとりです。

この広告看板の装飾もいかにも柳宗理らしい。温かみのある曲線を活かしたフォルムは工芸と工業デザインをつなぐモダンな印象ですが、肝心の広告があるべきところは空っぽで明かりが消されています。

周りを囲む装飾照明だけが明るく光っていますが、これも設計上点灯しておかないと空間の照度が保てないのでしょう。逆に寂しさと虚しさがいっそう掻き立てられます。

Asakusa SNB《浅草無言板》
Asakusa SNB《浅草無言板》

こちらは東京メトロ浅草駅の地下通路の様子です。本来なら外国人観光客向けの艶やかな広告が入るはずだったであろう照明看板が軒並み空白になっていて唖然としました。

しかし、近寄ってよく見るとここにはなかなか効果的なデザインが施されていることに気がつきます。

そう、白いガラスには淡いグレーの波模様がプリントされているのです。このちょっとした工夫で広告のない照明看板が立ち並ぶ通路でも木目や枯山水にも通じる落ち着いた和の風情を感じさせてくれるという非常に気の利いたデザインです。

今後、照明看板がデジタルサイネージに取り変えられていく過程でこうした環境デザイン的な装飾がいろいろと出現してくる予感がします。

しかし、あらかじめ広告が入らないことまで想定してこうした広告スペースをデザインすることには何か根本的な矛盾も感じます。〈無〉を装いながら体を張ってその場を取り繕っている様子は無為や無意味とは程遠く、むしろよく気の付く働き者の姿そのものだからです。

文・写真=楠見清