平山城と水城のハイブリッド
光秀が福知山に城を築いたのは、天正7年(1579)頃のこと。日本海へと流れる大河・由良川に向かって突き出したような、丘陵地の突端に位置する平山城。元々、この地域の豪族・塩見氏の横山城があり、それを黒井城の赤井氏が奪い取った記録も残っている。
現在の福知山城の姿は、江戸時代初期の城主・有馬豊氏の時代に完成したという。従って、この城のどこからどこまでが、光秀時代を踏襲しているかは定かではない。だが、その地形は光秀時代とさして変わらぬはずだし、縄張にも痕跡は垣間見えるはず。
城の西側にある駐車場から歩き始めると、さっそくその典型例が見えてきた。
アーチを描く橋は、観光用に架けられたもの。注目すべきは目の前の断崖ぶりと、手前の水路だ。
平山城なので、それなりの高低差はある。ただしそれだけに頼らず、由良川から水を引き入れ、水堀を張り巡らせてある。高松城や今治城のような海べりの城ならともかく、内陸の盆地にある城で、ここまで水による防備が施された城は珍しいかも知れない。平山城と水城のハイブリッド。それは縄張図を見ればよく分かる。
崖っぷち&水堀で、守りは万全だ。縄張図の右に斜めに流れるのは由良川。水堀の外側には、さらに天然の水堀。南北も二重三重に水堀が張り巡らされている。そして唯一、丘陵地としてつながった形の西側には、複数の曲輪(くるわ)を設けて防備。ぬかりない縄張といえる。
そういえば、坂本城も水堀を駆使した縄張だった。ただしあの頃はまだ、イメージはあったとしても、光秀の財力もそれほどではなかったのだろう。丹波一国を手に入れた今、存分にイメージ通りの“理想の城”をここに造ろう。そんな光秀の意志を感じさせてくれる縄張だ。
今なら呑気に太鼓橋をわたってアプローチできるが、以前は城にとりつくことさえ、容易ならざる城だったのだ。
城内の守りも万全の構え
もちろん、仮に城内まで侵入したとしても、そうやすやすとは攻め落とせない作りになっている。
落差のある崖っぷちにつけられた小道。大した傾斜ではないが息が切れる。左手はさっきの水堀へ真っ逆さま。翻って右手を見上げると……。
これをかいくぐりながら先を目指すのか。戦国時代に生まれなくてよかった、と心から思わずにはいられない瞬間だ。
スロープ状の道は、そのまま左回りにたどれば二の丸、本丸へと続く近道。城を見に来たほとんどの人は、こちらのルートをたどる。
ただし先程の縄張図をよく見てほしい。その先にはかつて、見上げるような石垣上に櫓(やぐら)が聳(そび)えていた。しかもその前が広場のような空間になっている。息を切らせてスロープを登りきり、角を曲がったと思うと一斉掃射。このルートはすなわち、死を意味する。
というわけで、途中で右に折れてみるのだが、それはそれでなかなかだった。
高さ5~6mはありそうな高石垣上の城壁には、狭間が等間隔で並んでいる。往時はもっと下向きに削られていたんじゃないか。途中で横矢もかかる中を突破した先には。
やはり……。左回りでも右回りでも、結局は同じことなのだ。しかしまあ、見事な高石垣だ。石の形状が揃っていない、野面積の荒々しい感じがまた、いい。
それにしても、小天守を支える高石垣が美しい。
光秀の名セリフが聞ける二の丸
「これが戦国時代なら、ここまでで4~5回は討死しているな……」と思いつつ、ようやく二の丸にたどりつく。
おーーーっ。日頃、「天守なんてなくっていい」と言い続けている城マニア山城派の筆者も、思わず感動を覚えずにはいられない見事な城っぷり。
復元だし、光秀時代とは異なる姿なのかもしれないけれど、どうしてもこの勇姿には、「丹波一国を平定せり。次はいずこか──」と、夢膨らむ光秀がこの場に立つ姿をイメージせざるを得ない。
と思っていたら、二の丸の一角にこんなものが。
前に立つと「ときは今! 明智光秀。ここに見参!」と、あの名ゼリフが発せられるではないか。ちなみにこのラッピング自動販売機、大河ドラマは終了したが今のところ、撤収の予定はないとか。光秀ファンはぜひ、そのセリフに涙してほしい。
もうひとつ、二の丸で見逃してはならないのがこちら。
福知山城の銅門(あかがねもん)の番所。現存遺構のひとつだ。ただしこの場所にあったのではなく、現在の福知山市役所の東にあったのを、移築されたものだ。
話を天守に戻そう。三層四階の天守は、美しいだけではない。仮に二の丸まで攻め込まれたとしても、防御の術はまだまだ残っている。
よく見ると大きな狭間以外にも、三角や四角の小型の狭間がちらほら。
福知山城は現存天守ではない。このあたりの造作は、さすがに往時のママかは定かではないが、用意周到な光秀ならきっと、これぐらいの備えは施していたのではないか。
天守を支える石垣部分については、調査の結果から、光秀時代のものだとほぼ推定できるという。福知山城の石垣といえば、必ずと言っていいほど語られるのが「転用石」だ。
福知山城の転用石は現在、石垣に組み込まれているものだけで、90点以上もあるとか。光秀の主君・信長の安土城を例に出すまでもまく、転用石を用いた城はいくつもあるが、ここまで数が多いのは相当珍しいといってよいだろう。
光秀の丹波平定に抵抗した寺から取り上げたとか、逆に城を守る意味での“神頼み”としてとか、その理由は諸説ある。案外、「ちょうどいいサイズやし、使ったらええやん」と、主君・信長ゆずりの合理主義な考えの帰結かもしれない。
天守からの眺めは縄張図とともに
石垣を従えた二の丸からの眺めもいいが、こちらも負けていない。本丸内には、籠城戦に必須のアレも。
深さは何と、50mもある。ちなみに福知山城の比高は約20m、標高は約43m。ということは、海面よりさらに低い位置まで掘っていることになる。
その井戸の向こうには、鳥居と社が見える。
祀られているのは、朽木稙綱(くつき たねつな)。寛文9年(1669)、初代藩主・朽木稙昌(くつき たねまさ)が福知山城に入城して以来、幕末まで13代、福知山藩は朽木氏が治めることになる。初代が父を藩祖と仰ぎ鎮座したもの。城外にあったものを、明治14年(1881)にこの場所に遷座された。
ちなみに、先程の豊磐井も、朽木氏時代に掘られたものと推定されている。
天守は外観は三層だが、内部は四階建て。江戸初期の有馬豊氏、朽木氏の一代前の松平忠房時代の絵図をもとに再建されたものだ。
最上階まで登ると、期待に違わぬ360度の絶景が待っていた。
ここでぜひ、縄張図を思い出してほしい。
東(縄張図でいうと右側)に突き出した高台が天守のある本丸。ということは、東西に長い城の全容を見ていることになる。写真正面に映るテーブル状の小高い丘は伯耆丸。東の要が本丸で、西の要が伯耆丸。その右脇の白い建物が福知山市役所で、そのあたりに銅門が立っていたはずだ。
現在は本丸と伯耆丸間は凹地になっているが、これは後世に掘削されたのでは? 伯耆丸の斜面が不自然にスパッと切れているのがその理由。城が現役だった時代には、細長い丘陵地が真っすぐ延びていたはず。縄張図の赤い登城路が左右に複雑に折れていたのは、急崖を登っていたのだ。
後世の開発で遺構は失われても、地形と縄張図をみれば、城の姿が目の前に蘇ってくる。これこそ城郭探訪の醍醐味。
城下にて光秀公が今も待っている
福知山城下には、坂本城と同じようにいくつかの城門が移築されている。これらもおそらく朽木氏時代のものだが、併せて巡るべく足を延ばす。ひとつひとつ造りが異なり、見比べてみるのも楽しい。
そして福知山の街なかにもうひとつ。訪れるべき場所があった。城下町の中心部にある広小路。文字通り幅広のメインストリートは、ある神社に向かって一直線に延びている。
御霊神社。いったい誰の「霊」を祀っているのかというと……。光秀だ。死後120年ほど経った朽木稙昌の時代に、光秀を偲んで建立された。
明智光秀は本能寺の変から一世紀を経て、福知山で神になったのだ。ここに来ればいつでも、光秀と会うことができる聖地。
境内の片隅に、こんなものがあった。
あるいは光秀も、この石に願掛けをしたことがあったのだろうか。
『福知山城』詳細
取材・撮影・文=今泉慎一(風来堂)