岩井秀人 Iwai hideto
作家・演出家・俳優。1974年、東京都小金井市生まれ。2003年に劇団ハイバイを結成。2012年にNHK BSドラマ『生むと生まれるそれからのこと』で第30回向田邦子賞、2013年に舞台『ある女』で第57回岸田國士戯曲賞受賞。2020年は『いきなり本読み!』などプロデュース企画も積極的に行う。
“東京であり東京でない小金井”の持つ「大衆の流行やムーブメントを憧れつつ引いて眺める目線」を武器に、家族、引きこもり、集団と個人、個人の自意識の渦……などについての描写を続ける劇団ハイバイの主宰・岩井秀人さん。この紹介文は劇団公式HPから引用したものだが、“小金井的な目線”とは一体何なのか。岩井さんが小金井で送ってきた人生と演劇作品の関連を聞いた。
前田日明をいじめるオランダ軍団をやっつけたい
——岩井さんは生まれも育ちも小金井なんですよね。
岩井 : ずっと小金井です。先ほど撮影をした小金井公園には小さな頃から親に連れてこられてたし、引きこもりの時期に格闘家を目指し、木にくくりつけたサンドバッグを夜中に蹴りに来ていたのもこの公園でした。
——プロレスラーを夢見てるけど家から出られない引きこもり……というご自身の状況は、『ヒッキー・カンクーントルネード』(2003年初演)という舞台にもされていました。本気で格闘家を目指していたんですか?
岩井 : 「前田日明(あきら)をいじめるオランダ軍団をやっつけたい」と思ってました。そういえば、演劇を始めてからは、公演の打ち上げ後にここでドロケイもしましたよ。他の友達と40人くらいで夜中にドロケイをしたんですが、顔を知らない友達の友達も、普通に公園を散歩中の人も混じってたので怖かったです。
——散歩中の人も怖かったと思います(笑)。岩井さんは子供の頃から都心にはあまり出ない感じでしたか?
岩井 : 出なかったですね。テレビで紹介されている都心の流行って、電車で20分くらいの場所の出来事なんですけど、「1年もすれば次のものに変わるだろうし、それに乗っかるのもな」みたいな感覚が当時からあったんです。同じ小金井出身の劇作家の松井周さんも都心の流行をやたら警戒していて、その姿勢は小金井っぽさなのかなと思います。
——さきほど武蔵小金井駅北口の「西友」の近くを通りましたけど、そこでBOØWYの「LAST GIGS」(1988年)のチケットが売れ残っていたという話も小金井的だと思いました。
岩井 : 全国で売り切れのチケットを、「あれ、これ息子が好きなバンドのじゃないかしら?」って母ちゃんが買ってきましたから(笑)。今考えるといい話です。
——その「西友」も2017年に閉店して、北口側は空き地や廃業店舗も目立っていました。
岩井 : 今の『メガドン・キホーテ』は以前は「長崎屋」で、「長崎屋」と「西友」のある北口は最強だったんですよ。それが、南口にフランスの冷凍食品専門店とかが入ったなんとかクロス(『SCOLA武蔵小金井クロス』)ができて、立場は逆転しましたよね。 今となっては「『西友』と『長崎屋』の2本の刀で戦ってたのか」と懐かしく思います。
「すでに自分の中で笑いになってる恐怖」 を描く
——演劇の道に進まれるきっかけは、15歳から約4年の引きこもり時代にWOWOWを見ていた経験にあるそうですね。
岩井 : 母ちゃんが加入してくれて、映画とサッカーと格闘技をとにかく見てましたね。それが外に出るきかっけになったし、映画は仕事にもつながりました。
——最初は俳優を目指していて、カルチャースクールの講座に通っていたそうですね。
岩井 : 府中のカルチャースクールの俳優講座ですね。それから立川の予備校で大検の受験資格を取り、仙川にある桐朋学園芸術短期大学の演劇専攻に進みました。本当は日芸に行きたかったんですけど、カルチャースクールの講師に「俳優になるなら“演劇界の東大”と呼ばれる桐朋に行け」と勧められたんです。ただ、その人はすでに70代。彼が知っていた桐朋の全盛期はとっくに過ぎていて、大学では古くさい翻訳調や文語体のセリフを朗々と喋る演劇をやらされ、「演劇の世界がいかにヤバいか」「何をしたら演劇は痛々しくなるか」を骨身に染みて学びました。
——通った学校がかたくなに23区外なのも面白いです(笑)。そこから演劇にのめりこむきっかけは何だったんでしょうか。
岩井 : 岩松了さんの『月光のつつしみ』(2002年、竹中直人、桃井かおりら出演)の稽古に関わらせてもらったことですね。岩松さんの舞台のセリフは日常会話のように淡々としているんですが、「さっきの一言であの人はすごく傷ついたな」とか、「あの『信じてる』ってセリフで、逆に相手を信じられていないことが露呈したよな」とか、他者を豊かに想像できる要素がたくさんあったんです。それで舞台中に自分の脚本も書き始めました。
——それがハイバイの最初の作品の 『ヒッキー・カンクーン~』だったわけですね。その後のハイバイは同作を含めて再演や再再演を頻繁に行っています。
岩井 : 『ヒッキー・カンクーン~』の公演を終えたときは、「よし、次の作品やろう」 というよりも、「こんな面白いものを見ていない人が日本にはまだ1億2000万人はいる。その人たちに見てほしい!」という気持ちが強かったんです。今も演劇界は新作信仰が根強いですが、僕は「見たことのないものを見たい」という期待をあまり持たない人間なので。
——そのお話も、子供の頃から最先端の流行を警戒していた小金井的な視点とつながりそうですね。そしてご自身の体験や、周囲で見聞きしたことを作品として発表しているのは岩井さんとハイバイの特徴だと思います。
岩井 : 『ヒッキー・カンクーン〜』の後の3、4作は、自分が何を書きたいのかも考えずに、「何をしたら面白がってもらえるか」とばかり考えていて、今の僕からすると失敗の連チャンでした。それで書くことも演じることもつらくなり、「自分が楽しいと思うことだけ書こう」と考えて作ったのが、『ポンポン お前の自意識に小刻みに振りたくなるんだ ポンポン』(2005年)でした。内容は、「ファミコンの『たけしの挑戦状』買いにいったら、怖い店員に別のソフトを抱き合わせで買わされかけた話」とか、「友達の家でファミコンがある者とない者のヒエラルキーの差がすごかった話」とか、「その家のテレビの上になぜかエロいカレンダーが貼ってあって、それがすごく怖かった話」とかです。
——確かに楽しい話ですね (笑) 。
岩井 : そういう「すでに自分の中で笑いになってる恐怖」を並べたら、楽しい気持ちになれたんです。そこから「自分の身から離れたものを書くまい」と思って、 3年後ぐらいに『て』(2008年)という作品も書きました。
——『て』は岩井さんの家族をもとにした話で、描かれる出来事にはつらいことも多いです。書くのは楽しかったんですか?
岩井 : 父親が家でキレていたときは本当に最悪でしたけど、もう父のいない場では『あれ見た?』『またキレてたね』みたいに家族も笑っていた時期でしたからね。父親は家の中で威張り散らす人でしたけど、その「家族から尊敬を集めようとするロジック」が僕はわかるから、書くのが超面白かったんです。酔っ払って昔の苦労話をしている最中に、自分の感動ポイントに入って、カラオケのサビみたいに自分に浸って怒鳴ってるんだけど、息子たちにはそれが全然伝わってなくて、軽蔑の度合いが上がってる感じとか(笑)。それを書くことで僕は当時の父親に復讐をしていたのかもしれないです。
※このインタビューの続きは『散歩の達人』2021年1月号に掲載されています。
劇団ハイバイ・主な作品
『 て 』
父親からの理不尽なDVに苛(さいな)まれてきた、四人兄妹とその母親。再集合した彼らが過去の関係を清算しきれず、さらに大爆発するさまを、息子・母と視点を変えて2周する構造で描く。岩井さん本人の実体験をもとにした家族劇。
『夫婦』
家族の暴君であり、大学病院の外科医だった父。その父を肺がんで亡くした妻と子供たちが、家族の真実にめざめてゆく。つらく、切ない物語のなかに、不思議なおかしみや愛が垣間見える『て』、に続くドキュメンタリー演劇。
『投げられやすい石』
美大生時代に天才と言われた佐藤と、その友人の凡人な山田。才能を持つ者、持たざる者の間を愛、怒り、打算が飛び交う青春ストーリー。2008年の初演当時の岩井さんの「世界や未来や自分に対する怒り」が生々しく描かれている。
ハイバイ「投げられやすい石」映像配信……2021年1月11日まで。ZAIKO by ローチケにて販売中
取材・文=古澤誠一郎 撮影=三浦孝明
『散歩の達人』2021年1月号より一部抜粋