光秀が坂本城の築城に着手したのは元亀2(1571)年。2年後の元亀4(1573)年に落成した折には、城内で連歌会も催されたという。琵琶湖岸に石垣を築き、大天主、小天主も従えていた立派な城で、その絢爛豪華さは、主君・信長の安土城に次ぐものだったとか。ちなみに安土城の築城は、天正4(1576)~天正7(1579)年なので、坂本城のほうが数年早い。
“城址公園”が城内にない!
一世を風靡した坂本城だが、広大な敷地のほとんどが跡形もなくなっていることは、事前に知っていた。江戸時代や近現代の市街地開発に巻き込まれ遺構が失われてしまうのは、平城の宿命ともいえる。坂本城の場合は、天正14(1586)年と江戸以前に廃城になっているため、なおさらその傾向が強いのは仕方ない。
そんなこんなで、あらかじめ覚悟の上で現地を訪れたのだが、坂本城址公園についてさっそく、驚いた。なんと、坂本城址公園は坂本城内ではないのだ。これがその証拠写真。
「現在地」は明らかに城外。二本の川に挟まれて、公園全体が半島先端の出丸のように見えなくもないが……。それはあくまで「ココが城であってほしい」という、城好き独特の妄想だ。
土塁や石垣など、遺構はない。木立と緑地と、小さな砂浜があるだけ。『麒麟がくる』を観てミーハー気分でやってきた人は、この公園を訪ねて終わりだろう。実にもったいない。「城、ホントはここじゃないですよ」と教えてあげたい……。
そんな城内じゃないのに城址だが、代わりに(?)面白いものにふたつ出会った。まずこちら。
石垣も天守も櫓もないので、坂本城といえばこの石像の写真がよくメディアでは紹介されている。観光客もこの像をバックに記念撮影するしかない。しかし、それでいいのか。
頭が妙にデカく、頭身のバランスがヘンだ。胴体も、えらいずんぐりしすぎじゃないか。表情も冴えないし、ポーズもなんか締まりがない印象。こんなに緊張感がない戦国武将の像、見たことがない。ある意味、斬新。一度見たら確実に脳裏に焼きつくインパクト。
そしてもうひとつ。
タイトルは「光秀」と書いて、「おとこ」と読ませる、前口上入りのド演歌。唄は鳥羽一郎。光秀の生涯が、三番まである歌詞にコンパクトにまとまっていてわかりやすい。「勝つか負けるか 運命(さだめ)にまかせ~」と口ずさんでしまいそうだが、残念ながらメロディは流れないのだった。
坂本城唯一の遺構は……
本物の坂本城の遺構を探すため公園を後にし、目の前の県道558号を北へ。100mほどゆくと道端に「坂本城本丸跡」の碑があったが、城の面影が感じられるものは何もなし。トボトボと引き返す途中で、小さな立て札を発見。
この小道の先に、なにかがありそうだ。確かに、さっきの看板の地図では、このあたりはしっかり城内で、本丸の敷地内になっていた。
本丸越しに琵琶湖の方に目をやると、ちょうど遠くに近江富士(三上山)のシルエットが見える。光秀、城完成の宴では富士を愛でながら連歌を詠んだのだろうか。
本丸はただの空き地で、城らしさは微塵も感じられないのだが、とにかく立て札に従って、琵琶湖岸へと伸びる小道へ足を踏み入れてみる。
草をかき分けながらたどりついたところに、ようやく登場した遺構がこれ。
ほとんど何がなんだかわからないが、脇の案内看板によると、これが水際に築かれた石垣の上端らしい。本当は湖岸に約20m続いているのだが、残念ながらほぼ湖中。1994年の渇水時には、ずらりその姿を表したという。次はまたいつ、見られることやら。
現在見られる坂本城の遺構らしい遺構は、実はこの石垣ぐらい。一時は安土城に次ぐ城にしては、寂しい限りだ。
遺構ではないのだが、城内でもうひとつだけ見ておきたかった場所がある。明智塚だ。
場所は石垣への小道の入口の少し北、ガソリンスタンド「ENEOS」の道路を挟んで反対あたり。民家とほぼ一体化してしまっているように見えて、非常にわかりにくい。はじめ、民家の庭かと思ったぐらいだ。
天正10(1582)年6月13日。山崎の戦いで光秀は破れ、坂本城を目指すが道中で討たれる。翌日、坂本城も落城。その際に光秀愛用の脇差がここに埋められたという。「武士は散れども~♪ 桔梗は残る~」(「光秀の意地」より)。光秀の無念を弔うために、坂本城に足を運んだ人には必ず訪れてほしい場所だ。
移築城門のある名刹へ
あらかじめわかっていたことだけれど、坂本城内は「在りし日」を伝えるものに非常に乏しい。ただ以上で今回の城攻め終了、ではなんとも物足りない。というわけで、城外にある城の遺構へ。
「城外」なのに「遺構」? と思われるかもしれないが、案外、各地の城でこのパターンはある。城門が、近隣の寺に移築されて残っているのだ。しかも、それが複数あることも。今回は坂本城のそれらにも足を延ばしてみたい。
まず、聖衆来迎寺(しょうじゅらいごうじ)の表門。国の重要文化財でもある。
門をくぐり境内に足を踏み入れると、本堂、客殿、開山堂と国の重要文化財の建物がL字状に並ぶ。境内の左手奥に歩を進めると、城門とともにもうひとつ、目的としていたものがたたずんでいた。
光秀に先んじて、志賀の陣で対浅井・朝倉・比叡山延暦寺の連合軍に対峙した、最前線の大将(詳しくは宇佐山城の回を参照)。森可成が討たれたことで光秀が代役に送り込まれ、やがて時を経て坂本の地を手に入れるに至る。可成の奮闘あってこそ、光秀の勝利あり。そのお陰で一国一城を手に入れられたと思うと、感慨深い。
猛将らしい剛気ささえ感じる墓石には、ワンカップ酒がぽつんとひとつ、備えられていた。
墓石前でしばし手を合わせた後、もうひとつの移築城門がある西教寺(さいきょうじ)を目指す。聖衆来迎寺はびわ湖西岸からほど近いが、こちらは内陸側へ少し登った比叡山麓にある。
煕子の墓はいずこに?
参道の入口にいきなり鎮座する総門。これが坂本城の移築門と伝わっている。聖衆来迎寺のものよりはるかに大きく、幅・高さともに3m以上ありそうだ。
この寺と光秀とは、複雑な縁がある。元亀2(1571)年の比叡山焼き討ちでは、一堂伽藍が全焼。当然、光秀もそこに関わっていただろう。だが坂本城主となって以降、光秀は西教寺の再建に力を注ぐ。明智家の菩提寺にしようとしていたという。1958年、大本坊という建物を改築の際、屋根裏から「天正年中明智公造之古木」と彫られた古材が発見されている。
総門をくぐると、一直線に伸びる石畳の道を抜ける。本殿や客殿など、この寺も国の重要文化財の宝庫。歴史ある名刹らしい、厳かな雰囲気に満ちている。ゆるやかに登る参道を進み、まるで城の桝形虎口のように二度の折れを伴い、石段を登りきると、石垣のそば、少し奥まったところに、光秀墓所が見えてきた。
すぐそばに正室・煕子(ひろこ)の墓もあるはずなのだが、見あたらず。代わりにズラリと石仏群が2列で並んでいる。おかしいな……と思っていたら、一番隅っこに隠れていた。
常に控えめな年上妻で、天正4(1576)年に夫より6年先に先立った愛妻。京都府亀岡市の谷性寺や高野山奥の院など、光秀の墓は複数あるが、煕子の墓と並んでいるここが一番ふさわしい気がする。
坂本城を探訪していた頃は青空だったのに、移築城門めぐりをするうちに、いつの間にか曇天に。雲行きはだんだん怪しくなり、墓にお参りする頃には、ついにポツポツと降ってきた。
光秀の涙雨? いや、それは考え過ぎか──。
『坂本城』詳細
取材・文・撮影=今泉慎一(風来堂)