清瀬駅をぐるりと歩き「外気舎記念館」へ
ハンセン病資料館へは西武池袋線清瀬駅からバスで10分ほどだ。清瀬駅周辺にも『歩くひと』に描かれた場所がいくつかあり、ハンセン病資料館へ向かう前に探しながら歩くことにした。今回、記事の中で漫画の中で描かれた場所をいくつか紹介するので、単行本を持っている人がいたらぜひ比較しながら見てほしい。
清瀬駅の構内から南口のロータリーを見下ろす。実は早速この角度の風景が『歩くひと』「第三話 町に出かける」で描かれている。主人公が商店街の駄菓子屋で紙風船を買い、膨らませて手の上でぽんぽん浮かせながら歩く。中に浮かぶ紙風船が描かれたコマの次に、この南口から見たロータリーの風景が挟まれる。
右手前の建物は漫画が描かれた90年代初頭とは変わっているようだが、左手のスーパーの建物はおそらくそのままだ。漫画に描かれた街灯がなくなっているなどの変化もあるが、奥の商店街へと続く道など、当時の雰囲気を想像することができる。
これから乗る予定のバスが発着するバス停も第五話「雨が降る」の冒頭に登場する。バス停の屋根は新しくなっているが、駅舎の形は漫画に描かれたままだ。
ロータリーから南西に延びる商店街「ふれあいど〜り」へと進む。この商店街と思しき通りも第三話で描かれる。写真の質屋と焼き鳥屋の間の道が、主人公が駄菓子屋で買った紙風船の袋を手に歩く道ではないかと思う。
清瀬駅周辺の「ロケ地」をひととおり回り、バスで最初の目的地「外気舎記念館」のある国立機構東京病院へと向かう。
清瀬駅から久米川駅北口行きのバスに乗ると、5分ほどでバス停「東京病院北」に着く。病院の入り口から、今回取材を許可してくださった企画課の担当者さんにご挨拶するため、管理棟へ向かった。ちなみに、取材以外の一般の方でも見学する際には事前に東京病院への連絡が必要となる。
担当者さんと合流し、敷地内の外気舎記念館まで案内していただく。夏ということもあって建物の周囲に草が生い茂っていたのを、今回の取材に合わせてわざわざ刈り取ってくださったという。
管理棟から歩いて数分のところに、木造の小屋が立っている。この小さな建物が外気舎記念館だ。
外気舎記念館として保存されている建物は、昭和14年(1939)に開所した傷痍軍人東京療養所の付帯施設として、結核患者の回復のために使用された病棟(外気舎)だった。回復期にある患者が2人1組になり、ここで大気療養や軽作業を行い回復を図ったという。
当時不治の病とされた結核は、綺麗な空気の中で栄養をとりながら安静に療養することが治療法だった。建物の大きな窓は、冬でも換気のために開け放たれていたそうだ。
建物の中には木製のベッドが2つ並んでいて、それぞれ頭の上の位置に小さなテーブルと、当時の食事の様子を再現したものだろうか、トレイと食器が置かれている。寝て食べるだけに必要な最低限のスペースしか確保されていない、療養に特化した施設だ。
外気舎に隣接して、記念碑が立っていた。説明板によると、第二次大戦中に旧東京病院に入院していた傷痍軍人が「「再起奉公」を願い又国民がこれを支えた碑」と書かれている。
取材前、1930〜40年代に刊行されていた週刊グラフ雑誌『写真週報』を国会図書館デジタルコレクションのサイト上で見ていたところ、1941年3月26日・第161号の「奇襲 漫画家慰問隊ーー東京府清瀬村」という記事を見つけた。新日本漫画家協会所属の漫画家たちが傷痍軍人東京療養所を慰問のために「奇襲」するという内容だ。『フクちゃん』で知られる横山隆一などの当時の人気漫画家が、療養中の兵士たちに似顔絵を描いたり、漫画紙芝居を見せるなどして楽しませる様子の写真が掲載されている。https://dl.ndl.go.jp/pid/1896407/1/20(※閲覧には登録が必要)。
確認したわけではないが、もしかしたら外気舎を(仕事として)訪れた漫画家は、この時の慰問隊メンバー以来なのではないかと、ふと思った。もちろん今回は慰問ではなく、取材だ。
『国立ハンセン病資料館』を訪ねる
外気舎記念館を見学した後は、徒歩で国立療養所多磨全生園内に隣接する国立ハンセン病資料館へ向かう。東京病院を出て東京都道226号東村山清瀬線を東に400mほど歩くと、ハンセン病資料館の入り口が見えてくる。
国立ハンセン病資料館の前身である高松宮記念ハンセン病資料館は、1993年にハンセン病患者・回復者が自らの生きた証を残し、同じ過ちが繰り返されないように社会に訴えることを目的として設立・開館した。2007年、国立ハンセン病資料館として再開館。現在は、ハンセン病に関する正しい知識の普及啓発を通じて偏見・差別の解消を図るとともに、患者・元患者及びその家族の名誉回復に取り組んでいる。
資料館では「ハンセン病療養所のなかの『外国人』」を企画した学芸員の木村哲也さんにご挨拶し、展示を案内していただいた。
これまでハンセン病療養所の歴史は「日本人患者」を前提として語られることが多かったが、今回の企画展はその前提自体を問い直すものだという。戦前の植民地支配を背景に朝鮮半島から渡ってきた人々の中には、過酷な生活環境が原因でハンセン病を発症する者も少なくなく、日本の療養所にも多くの朝鮮人(今回の展示では朝鮮半島にルーツを持つ人びとを「韓国籍」「朝鮮籍」「日本籍」の区別なく「朝鮮人」と表記している)入所者がいた。一般社会よりも在日朝鮮人の割合は高く、入所者全体の1割を占める園もあったそうだ。
会場内の展示は「はたらく」「たたかう」といった主題ごとに分かれていて、日本人が担いたがらない重労働を朝鮮人労働者が引き受けていたこと(「はたらく」)、年金獲得闘争や国賠訴訟など、朝鮮人入所者たちが差別の中で声を上げてきた歴史(「たたかう」)などを、資料やパネルを通して伝えている。
また、多磨全生園の在日朝鮮人入所者による民族舞踊の集団「アリランの会」が使用した楽器や衣装(「うたう、おどる」)、家財の一部(「くらす」)、識字学級、短歌や詩の創作活動(「よむ、かく」)など、隔離された療養所での日常生活や、文化と表現の領域における実践についても光を当てている。
そのほかにも、ロシアの亡命貴族の家系に生まれたコンスタンチン・チェロトフの詩の自筆原稿、インドネシアからの留学生、記録に残っている台湾籍入所者など、朝鮮半島以外の多様な背景を持つ入所者についても紹介されており、「外国人」という言葉で一括りにすることができない、ひとりひとりの入所者が生きた痕跡を伝える内容となっている。
展示の解説をひととおり終えたところで木村さんは、ハンセン病にまつわる歴史は「決して終わったことではなく、現在の社会につながる問題として捉えてほしい」と話してくれた。
企画展の後、資料館の常設展示も見て回った。展示室1「歴史展示」では日本のハンセン病をめぐる歴史を概観できるような展示が行われており、古代から近世におけるハンセン病への認識、近代以降の療養所設立と患者の収容、1930年代以降に進んだ強制隔離、戦後の化学療法の登場と患者運動、1996年の「らい病予防法」廃止と国家賠償請求訴訟などの歴史について、パネルや資料とともに紹介している。
続く展示室2「癩療養所」では、治療薬が登場する以前の時代を中心に、療養所内の苛酷な状況下での生活について、資料やジオラマによる展示が行われている。展示品には実際に療養所の作業で使用されていた道具や、身につけていた義足などの補助具もあり、入所者が過ごした時間や身体のあり方が、文字や写真とは異なる重みを持って伝わってくる。
2階の常設展示会場から1階に下りると、見る順序は逆になってしまったが「導入展示 患者の隔離を象徴するもの」として、消防団団服、消防ポンプ車、映写機などが展示されていた。療養所で火災が起きても近隣の消防署は消火に来てくれないため、多くの園では入所者たちで組織した消防団があったという。映写機は、隔離政策のため外に出られない入所者たちが、療養所内で映画を見ることができるように備えられたものだ。
滞在時間の都合で常設展示の方は駆け足になってしまい、全てをじっくり見ることができなかったのが残念だった。また改めて訪れたいと思ったし、東村山以外にも全国にある療養所や資料館へも足を運ばねばならないと強く感じた。
国立療養所多磨全生園内を散策
ハンセン病資料館を出て、全生園の敷地内を散策する。資料館の前は「資料館通りの桜並木」となっていて、通りを挟んだ一角は「桜公園」として整備されている。資料館通りの桜は1955年に入所者によって植えられたものだという。それなりに老木も多いと見え、「頭上注意 枝の落下にご注意ください」という看板が出ていた。
資料館の脇の道で、保育士さんと散歩中の保育園児たちがひっくり返った蝉を指さして「寝てる!」と言っていた。納骨堂の手前に置かれたベンチには「花さき保育園」の名前と園児たちが描いたと思われる絵が印刷されていて、今の子たちも通っているのかもしれない。「花さき保育園」は多磨全生園の敷地内にあり、入所者の人たちと交流を行っていることでも知られている。
園内には入所者の居住区があり、現在も80名ほどの元患者・回復者の方たちが療養生活を送る。
歩いていると、道の角にあるスピーカーから一定のメロディーが繰り返し鳴っていることに気づいた。後で調べたところ「盲導鈴」と呼ばれる、視覚障害者の道しるべとして設置されているものだった。また、道の真ん中に引かれた白線は、弱視者の誘導のためのものだそうだ。
園の南西の方に、古い木造の建物「旧図書館(理・美容室)」がある。上野の帝室博物館を解体した際の用材を宮内庁から払い下げてもらい、昭和11年(1936)に大工の技術を持つ入所者によって復元されたという。当初は図書館や会議室として使用され、現在は 理・美容室となっている。取材では訪れそびれてしまったのだが、園内には他にも恩賜公園(楓公園)や御歌碑など、皇室にゆかりのある場所や碑が存在している。
園の南門そばまで行くと、工事中の高台のような場所があった。どうやら現在再整備を行なっている「望郷の丘」のようだ。入所者の逃走防止のため入所者自らが掘った際の残土で築かれ、この上から遠くの故郷に思いを馳せたという。
園内を歩いていると、近隣に住んでいると思しき人たちが自転車で通り過ぎたり、ラフな格好で歩いたりしているのを見かけた。自分がこの近くに住んでいたら、あるいは育っていたら、園内をどんな気持ちで歩いていただろうかと想像する。
空堀川に出合い、平和観音や守り継がれる緑地を巡る
全生園の北側に流れている空堀川へ向かう。緑地保全地域などが残る静かな住宅地を抜けると、交通量の多い志木街道に出る。この志木街道と交差するように流れているのが空堀川だ。「流れている」と書いたが、正確には川の中央で水が途切れていて、川底の砂利の端に溜まった少量の水が、橋の上流側と下流側でかろうじてつながっているように見えた。
空堀川は武蔵村山市野山北公園付近を源として東に流れ、清瀬市中里で柳瀬川と合流する一級河川だ。
東京都建設局の「柳瀬川流域河川整備計画(東京都管理区間)」(令和5年2月)によると、「かつて古多摩川が南下する際に取り残された小さな流れであるため、特定の水源に乏しいことや河床の浸透が良いことなどにより、降雨時だけ水が流れる涸れ川で「砂の川」という別名で呼ばれていた」そうで、昔から水の涸れやすい川だったようだ。
東京23区東部に住む人間(だけではないと思うが)にとっては、川には水が流れていて当たり前だと思っていたので、涸れた川の姿は新鮮だった。
志木街道をそのまま東へしばらく進むと、右手にある駐車場の一角にたたずむ観音像が見えてくる。
昭和20年(1945)4月2日、米空軍のB29爆撃機1機が日本軍の対空砲火を受けて墜落、搭乗していた11人全員が亡くなった。遺体は墓地に埋葬され「無名戦士の墓」と記された墓標が建てられた。戦後、墜落地点の畑の地主だった小俣権次郎さんが米兵の慰霊と平和の祈願のために観音像を建てることを発願、1960年に東村山町長やジョンソン基地司令官らが出席して開眼法要が行われたという。
北多摩5市の地域ニュースメディア「はなこタイムズ」の記事によると、東村山をはじめとする北多摩北部の田園地帯は、周辺に軍事施設が集中していたことから太平洋戦争末期には激しい空襲を受けた。墜落したB29も偵察飛行中に砲撃を受けたと見られ、一見のどかに見える田園地帯も「準戦場」だったと書いている。
【戦後80年】墜落したB29搭乗員を手厚く供養 平和観音の物語を紙芝居で次代に伝える ー はなこタイムズ
https://46854.net/hanako/?p=5311
以前この連載で訪れた東大和の旧日立航空機株式会社変電所があった日立航空機立川工場も、空襲の標的となった施設のひとつだ。観音像が立つ志木街道沿いは住宅が増えたとはいえ、現在も周囲には畑が広がる。同時にチェーン系の衣料品店やドラッグストアが点在する郊外のロードサイド的な風景でもあり、この一見ありふれた景色の中にも、多摩地域を襲った戦争の痕跡が残っている。
西武池袋線秋津駅に向かい、駅前にある韓国のハンバーガーチェーン店『MOM’S TOUCH』で昼食をとる。数年前渋谷に1号店がオープンした時に行ってみたいと思っていたが、昨年国内5号店が秋津にできたらしく、たまたま取材ルート上にあったので入ってみた。チキンサイバーガーを頼んだが、サクサクの衣と柔らかいモモ肉がなかなかおいしかった。
昼食を済ませ、徒歩で武蔵野線新秋津駅近くの秋津神社を目指す。神社が目的地というわけではなく、境内の下を通る連絡線の線路を見たいと思ったからだ。
神社の境内の端に金網があり、見下ろすと境内の下から延びるように走る線路が見える。車両の運搬や西武多摩川線の車両点検などに使用される車両輸送専用の路線のようだが、今後JRとの臨時列車の直通運転も計画されているという 。
金網の横が斜面になっていて、線路の脇まで下りることができる。それほど頻繁に車両の通過があるわけではなさそうで、静かだ。線路だけがあって電車の気配がないとまるで廃線のようにも見え、少しもの寂しさを感じる。再び境内に戻ると、私たちと同じように線路を見に来たと思しき男性が金網越しに線路を眺めていた。
秋津神社から北西に進み、柳瀬川に架かる安松橋を渡る。安松橋の右手に第二上柳瀬川橋梁が走り、その下の橋脚の間にちょっとした空間が広がっている。
人気も少なく、線路と橋脚で囲まれていることもあり、どことなく秘密基地っぽい場所だ。頭上には時折西武線の車両が通過する大きな音が響き、下には柳瀬川の清流が見える。
橋梁の下の空間から道を隔てたところには、「淵の森緑地」と呼ばれる樹林地が広がっている。1996年に宮崎駿監督をはじめとした市民の寄付により東村山市と所沢市が土地を取得し、公有地となっていて、現在も宮崎監督が会長を務める「淵の森の会」が保全・管理を担っている。
スズメバチの活動が盛んな時期ということもあり、敷地内にはオオスズメバチの危険を伝える表示を見かけた。警告に従い、木々の間をゆっくりと進む。
カシやコナラなどの広葉樹が繁茂する緑の道をしばらく歩くと、河原に出る斜面に差しかかる。足元に気をつけながら下りると、柳瀬川の清流が目の前を流れていた。都内でせせらぎをこんな間近に見ることができるのかと驚く。穏やかな河原の風景をじっくり眺めていたいと思ったものの、虫除けスプレーをしているのにどんどん虫が集まってきたので、早々に退散する。もう少しいたかったが、オオスズメバチに遭わなかっただけ良かったのかもしれない。
※今回訪れた空堀川、平和観音像、第二柳瀬川橋梁、淵の森緑地について、東村山に詳しい、ミュージシャンのよだまりえさん(Instagram: https://www.instagram.com/marie_yoda/)に情報を提供していただいた。おすすめの場所を教えていただき、ありがとうございました。
柳瀬川周辺にも『歩くひと』のロケ地があった
淵の森緑地を出て新秋津駅まで歩き、武蔵野線で東所沢駅に向かう。谷口ジローの漫画『歩くひと』に清瀬市周辺の風景がたびたび登場することは冒頭にも書いたが、柳瀬川沿いのいくつかの場所も描かれており、それらの「ロケ地」を巡ってみることにした。
東所沢駅からシェアサイクルを利用して柳瀬川沿いの清瀬金山緑地公園を目指す。台地上に位置する東所沢駅から柳瀬川へ向かって南に走ると、柳瀬川によって削られた段丘崖を下ることになる。
台地上の標高が55m程度、崖下が33mくらいなので、20mほどの高低差がある。崖沿いには東福寺や氷川神社といった寺社が鎮座していて、自転車で坂を下る途中に突然大きな白い観音像が目に入ってびっくりしたのだが、どうやら東福寺の「守護観音」のようだった。
清瀬金山緑地公園に着き、自転車を所定のポートに停める。公園中央には人工の池があり、ここも『歩くひと』第十二話「かすんだ風景」 で主人公が訪れた場所だ。
池に沿って歩き、柳瀬川の河原へ向かう。河原にはテントを張ってバーベキューを楽しむ人たちの姿があり、子供たちが川に入って水遊びをしていた。川の水を掛け合っている子供たちを見ていて、この日は曇り空にじっとりと汗ばむ陽気だったため、思わず混ざりたい気持ちになる。
河原を東に少し下ると、赤い橋が架かっている。金山橋といって、「雪が降る」で主人公が犬と一緒に渡った橋だ。漫画では橋の歩道上にトンボの図柄の敷石が描かれているが、実際は橋の親柱側面にある。
河川敷に下りて、金山橋を眺める。ここも同じく「雪が降る」で金山橋を渡った後、主人公が川から飛び立つ鷺を見上げる場面で描かれている。
清瀬金山緑地公園を後にして、再び自転車で別の「ロケ地」を目指す。諸事情により漫画に描かれた全ての場面の画像と比較しながら紹介できないのが残念だが、柿の下交差点から崖下の街並みを見るコマのみ、『歩くひと』の場面と、同じ場所を私が描いたもの、今回の取材で撮影した写真を並べて掲載する。
実際この場に来てみると柳瀬川通りの柿の下交差点付近は交通量が多く、ガードレール側は人が歩くスペースもほぼないため、訪れる際は十分注意してほしい(『歩くひと』の主人公も通過する車からクラクションを鳴らされている)。
柿の下交差点から柳瀬川通りを東に進み、左に道を折れてしばらく行くと中里の富士塚がある。『歩くひと』第五話では、清瀬駅からバスに乗った主人公が車窓から一瞬見えた富士塚が気になり、途中で下車する。主人公が富士塚の頂上で空を見上げると雨が降り始めるのだが、私たちが訪れた日は曇り空から時折日が射していた。
高揚するベルーナドームを後に、狭山湖を目指す
『歩くひと』の「ロケ地」巡りを済ませ、取材をここで終わらせることもできたのが、せっかくなので先日訪れた多摩湖に隣接する狭山湖も見ておきたいと思い、中里の富士塚から清瀬駅へ戻り、清瀬駅から狭山湖最寄りの西武球場前駅に向かうことにした。
タイミング良く西武球場前行きの電車に乗れたものの、この日はベルーナドームで試合があるらしく、車内は西武ライオンズのユニフォームや応援グッズを手にした人でいっぱいだった。何のライオンズグッズも身につけておらず少々肩身の狭い思いをしながら、西武球場前駅に到着する。
野球の試合は人生で数えるほどしか見たことがないが、試合前の球場に詰めかける人たちの高揚する雰囲気が伝わってきた。
とはいえ野球観戦ではなく狭山湖を見に西武球場前駅で下りた少数派の私たちは、ドームを後にして大通りに沿って狭山湖方面へと向かう。途中ビールの売り子さんらしきカラフルなユニフォームを着た女性の集団とすれ違い、これが球場のある街の風景かと思う。
大通り沿いの駐車場の向こうに寺院の門のようなものが見え、ずいぶん立派だなと思って写真を撮った。後で調べてみると狭山山不動寺の勅額門といって、元々は芝の増上寺内に建立された2代将軍徳川秀忠の霊廟の門だったという。1963年にユネスコ村に移築され、現在の所在地は狭山山不動寺境内となっているそうだ。
不動寺を横目にまっすぐ進むと、正面が上り坂となっていて、右手に山門が立っている。「金乗院 山口観音」という、真言宗豊山派のお寺のようだ。
そのまま坂を登ると右手にお堂が2つ見えてきて、さらに見上げると高台の上に塔のような建物がある。予定にはなかったが、近くまで登ってみることにした。
比較的新しいように見えるが、朱色の五重塔が山の上に聳える様子はなかなか迫力がある。不動寺といい、ベルーナドームのそばにこれだけ歴史のある建物や寺院が立ち並んでいるとは知らなかった。
山口観音を過ぎ、所沢武蔵村山立川線沿いの歩道を西に歩く。この道は多摩湖自転車歩行者道の一部となっているようで、時折自転車が通過するため注意しながら進む。
しばらく進むと、木々に囲まれた鳥居が見えてくる。昭和9年(1934)山口貯水池竣工に伴い東京市によって創建された玉湖(たまのうみ)神社だ。創建時は水神とともに山の神を併祀し、毎年5月10日の大祭では神楽や余興などが行われ、出店も出て賑わったという。戦後、公共施設内での祭事が問題となり、1967年に御霊移しが行われたため、現在は何も祀られていない。
旧境内には二基の「殉職者之碑」があり、気になったので後で調べてみた。『東大和市史資料編2(多摩湖の原風景)』によると、昭和20年(1945)10月28日と11月20日に建立され、第二次大戦末期、村山山口両貯水池(多摩湖・狭山湖)の堰堤を米軍の空爆から守るための補強工事に従事して亡くなった人のものだという。取材の時は碑の正面しか見なかったため気づかなかったのだが、碑文に記された殉職者には本籍が「朝鮮」と記された人も2名含まれていると、上記の本に書かれていた。
玉湖神社を後にして、その東隣にある「狭山富士」に向かう。狭山富士は無田山貯水池(多摩湖)と山口貯水池(狭山湖)に位置する人工の山で、昭和8年(1933)に山口貯水池造成時の土を盛って造られた。
夏ということもあり入り口と思われる階段の周辺には草が生い茂っていて、歩道から近づくのもやっとなくらいだ。本当にここが入り口(登山口)なのか不安になる。足を踏み入れるのを躊躇っていると、担当編集者さんが先陣を切って登り始めたので、私もえいやと草むらに足を突っ込み、後を追った。
伸び放題の草をかき分けて道なき道を進むと、頂上と思しき場所にたどり着いた。遭難を心配するレベルで道がなかったので、手書きで「狭山富士 151m」と書かれた小さな標識を見つけて、いままで登っていたのが狭山富士なのだとようやく確信できた。
多摩湖と狭山湖の間に造られた狭山富士の頂上からは南に多摩湖、北に狭山湖方面を望むことができるはずだが、草木に隠れてどちらの湖面もほぼ見えない。頂上といっても人が立つことのできる足場は少なく、草に覆われていた大きめの石の上に立ってようやく眺望を確保できるくらいだ。狭山湖方面に高いビルが二棟見えたが、後で調べてみると小手指駅前のタワーマンションのようだった。木々の向こうにあるはずの、両貯水池を満たす水の気配を感じながら、再び草をかき分けて山を下りた。
中里の富士塚に続いて今日2つ目の富士を登った後、最後の目的地狭山湖(山口貯水池)へ向かう。
先ほど歩いてきた所沢武蔵村山立川線を戻り、途中で左手に折れて進み、埼玉県立狭山自然公園の入り口を目指す。歩きながら担当編集者さんと、先日リバイバル上映されていたエドワード・ヤン監督の『海辺の一日』の話題になり、回想とともに複数の時間が交差する構成や、対照的な生き方を選択した兄妹の描かれ方などについて話す。
これから向かうのは湖(貯水池)だが、劇中の印象的な海辺の場面を思い出しているうちに、今後の取材でまた砂浜のあるような海辺も訪れたいと思った。そういえばこの連載で砂浜を歩いたのは昨年夏に取材した逗子くらいかもしれない。
道路から狭山湖側に見える木々の迫力に驚きながら歩いていると、ようやく埼玉県立狭山自然公園に到着した。芝生に囲まれた歩道を進むと、四阿(あずまや)とモニュメントのようなものが見える。
近づいてみると、説明板に「昭和の高欄と親柱」と書かれている。狭山湖建設時に建てられた「高欄(手すり)」と「親柱(照明と避雷針用の塔)」のようだ。戦時中に爆撃から堤体を守るためにコンクリートで固めた耐弾層が施工され、平成の工事でそれを撤去した際、埋もれていた高欄が出てきたという。目隠しのために黒いタールのようなものが親柱に塗られていたそうだが、現在は清掃され元の状態が再現されている。目隠しのために黒いタールが塗られていたというのは、多摩湖で見た親柱と同じだ。
堰堤上から狭山湖を眺める。以前取材で訪れた多摩湖と似ていて、一瞬デジャヴかと思うくらいだ。もちろん、よく見ると取水塔の形や周りの風景も違う。多摩湖に隣接する狭山公園は、雑木林や宅部池など武蔵野の里山の風景を感じさせるが、狭山湖に隣接する狭山自然公園は中央に運動場があるせいか、だだっぴろく、開放的な印象を受ける。
周りには我々の他に人影もあまりなく、空もだんだん薄暗くなってきた。午前中から歩き通してきた疲れを感じながら、最後の目的地も見終えたので、駅に戻ることにした。
堰堤を下りたところに、何やら柵に囲まれた一角がある。調べてみると、余水吐(よすいばき)と呼ばれるダムの水位が上がった時に水を放流するための設備のようだ。
公園を出て運動場の脇の道を北に進むと大鐘橋という橋がかかっていて、ここが柳瀬川の起点となっている。先ほどの余水吐はこの上流に位置している。数時間前まで『歩くひと』の舞台として柳瀬川の河原を歩いていたが、その源流が目の前にあって、しかもこんなに細い流れなのが不思議だ。
西武球場前駅まで戻る途中、少し遠回りをして「トトロの森」のある方へと歩いてみた。映画『となりのトトロ』の舞台のモデルの一つとされる狭山丘陵の自然を守るため、寄付金を募って森を少しずつ買い取り「トトロの森」と名づけて守る活動が行われている。狭山自然公園の北東一帯にはこうした「トトロの森」が10箇所以上ある(1号地、15号地のように番号が付けられている)。
しかし「トトロの森」の前まで来ると、完全に日が暮れて暗くなってしまった。仕方ないので今回は森の様子を見るのは諦め、駅を目指す。
編集者さんが「あ、コウモリ!」と言うので空を見上げると、暗くなった空をコウモリが何匹も舞っていた。
西武球場前駅に着くと、ベルーナドームの周りには移動販売車が出ていて人でにぎわっていた。駅の改札を抜けるとドームの中から歓声が聞こえ、試合が盛り上がっているようだった。西武山口線で多摩湖駅に向い、多摩湖駅から西武多摩湖線で国分寺に出て、東東京へ戻った。
取材で繰り返し多摩地域を訪れるようになり、自分の中の地図が徐々に広がっていくように感じていたけど、複雑な西武線の路線を覚えるにはまだ時間がかかりそうだ。
取材・文=かつしかけいた 撮影=かつしかけいた、さんたつ編集部
【その他参考にした資料・URL】
・外気舎記念館
“文化・文化財”.清瀬市観光協会,https://www.kiyosekanko.tokyo/information/seeing/calture,(2026年10月15日参照).
・国立ハンセン病資料館
“国立ハンセン病資料館公式HP”.国立ハンセン病資料館,https://www.nhdm.jp/,(2026年10月15日参照).
“国立ハンセン病資料館 YouTubeチャンネル”.YouTube,https://youtube.com/@hansenmuseum,(2026年10月15日参照).
“ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書”.公益財団法人 日弁連法務研究財団.https://www.jlf.or.jp/work/hansen/report/,(2026年10月15日参照).
“日本のハンセン病療養所・資料館”.ハンセン病制圧活動サイト Global Campaign for Leprosy Elimination.https://leprosy.jp/japan/sanatoriums/,(2026年10月15日参照).
“「ハンセン病を生きて」第182回多摩探検隊”.YouTube,https://youtu.be/VecYi2HZ2nA?si=r1CGvzPi0zN8APdG,(2026年10月15日参照).
“ハンセン病の歴史に向き合う 全生園に開園した保育園の取り組み ”.東京都人権啓発センター,https://www.tokyo-jinken.or.jp/site/tokyojinken/tj-56-column.html,(2026年10月15日参照).
“ハンセン病について”.菊池恵楓園歴史資料館,https://www.keifuen-history-museum.jp/issue.html,(2026年10月15日参照).
原武史.『地形の思想史』「第三景 島と隔離」.角川新書,2023年5月.
“多磨全生園 − 「土塁と堀の考古学調査」報告会”.ハンセン病制圧活動サイト Global Campaign for Leprosy Elimination.https://leprosy.jp/people/plus09/,(2026年10月15日参照).
“【特集】ハンセン病と外国人。見過ごされてきた二重の差別(木村哲也)”.『荻上チキ・Session』TBSラジオ,https://www.youtube.com/watch?v=HsyU-ZnpCFM,(2026年10月15日参照).
“東京・東村山市にあるハンセン病療養所「多磨全生園」の自然と歴史を親子で楽しみ、学ぶイベント”.TBSラジオ,https://www.tbsradio.jp/articles/105625/#goog_rewarded,(2026年10月15日参照).
“花さき保育園公式HP”.花さき保育園,https://www.hanasakihoikuen.jp/,(2026年10月15日参照).
・空堀川
“空堀川に水を取り戻し、楽しく遊べる川へ”.NPO空堀川に清流を取り戻す会,https://www.karaborigawa2.org/,(2026年10月15日参照).
“柳瀬川流域河川整備計画(東京都管理区間)”.東京都庁,https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/kensetsu/000061936,(2026年10月15日参照).
“15. 河川の水量確保を目的とした空堀川下流域の地下水環境調査(2) ”.東京都庁 ,https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/kensetsu/000010059,(2026年10月15日参照).
“13. 河川の水量確保を目的とした空堀川下流域の地下水環境調査”.東京都庁,https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/kensetsu/000010012,(2026年10月15日参照).
“柳瀬川流域”.東京都庁,https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/river/seibi/kasenbu0082#%E6%9F%B3%E7%80%AC%E5%B7%9D%E6%B5%81%E5%9F%9F%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81,(2026年10月15日参照).
・平和観音像
“B29と平和観音(東村山・秋津)”.戦跡紀行ネット,https://senseki-kikou.net/?p=9122,(2026年10月15日参照).
“「平和観音像に刻まれた遺志~東村山に墜ちたB29~」第154回多摩探検隊”.YouTube,https://youtu.be/W0lKuhhsFrw?si=i-NLMAJVAAYKLbY4,(2026年10月15日参照).
・淵の森緑地
“淵の森緑地”.東京都東村山市シティプロモーションサイト,https://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/citypromotion/midokoro/spot_f.html,(2026年10月15日参照).
“緑の保全”.東村山市,https://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/kurashi/gomi/ryokuka/hozen.html,(2026年10月15日参照).
・東福寺
“まちを見守る東所沢の白い大観音像!東福寺「守護観音」/仏像イラストレーター・田中ひろみ”.所沢ナビ,https://tokorozawanavi.com/news-tanaka2021207/,(2026年10月15日参照).
・『歩くひと』巡り
清瀬市郷土博物館 特別展カタログ「歩く、描く 谷口ジローと清瀬」.清瀬市郷土博物館 一般社団法人パピエ 株式会社ふらり 編.清瀬市郷土博物館,2023年1月.
『東京人』2021年11月号 特集『「谷口ジロー」描かれた風景を「歩く」愉しみ』.東京人編集部 編.都市出版,2021年9月.
・中里の富士塚
“施設案内 中里の富士塚”.清瀬市,https://www.city.kiyose.lg.jp/shisetsu/bunkasisetu/bunkazai/1001436.html,(2026年10月15日参照).
・狭山山不動寺
“狭山不動尊について”.狭山不動尊,https://sayamafudo.com/about/,(2026年10月15日参照).
“旧台徳院霊廟勅額門、丁子門及び御成門”.所沢市,https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/iitokoro/enjoy/bunkakyoyo/bunkazai/kunishiteibunkazai/bunzai_20130411114424079.html,(2026年10月15日参照).
・山口観音
“194番「金乗院(山口観音)」”.所沢市,https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/kurashi/jutaku/keikan/mijikanakekan/keikanshigen/ichiran/shiteiichiran/194yamagutikannnon.html,(2026年10月15日参照).
・玉湖神社
『水道協会雑誌』(21),日本水道協会.1935年. 国立国会図書館デジタルコレクション, https://dl.ndl.go.jp/pid/3276044 ,(2026年10月15日参照).
東大和市史編さん委員会 編『東大和市史資料編』2 (多摩湖の原風景),東大和市.1995年. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13217123,(2026年10月15日参照).
東大和市史編さん委員会 編『東大和市史資料編』9 (道と地名と人のくらし).東大和市.1999年. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13217106 ,(2026年10月15日参照).
・『海辺の一日』
“『海辺の一日』”.『海辺の一日 4Kレストア』公式サイト,https://www.the-day-on-the-beach-4k.com/,(2026年10月15日参照).
・狭山湖(山口貯水池)
“「山口貯水池」の誕生と周辺の観光開発”.三井住友トラスト不動産,https://smtrc.jp/town-archives/city/tokorozawa/p04.html,(2026年10月15日参照).
“狭山湖”.一般社団法人水源地環境センター,https://www.wec.or.jp/library/100selection/content/sayamako.html,(2026年10月15日参照).
・トトロの森
“「トトロの森」はナショナル・トラストで守られた森”.公益財団法人 トトロのふるさと基金,https://www.totoro.or.jp/intro/,(2026年10月15日参照).
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