そこで、「自由に使っていい」と決めた一万円札を持って、外へと繰り出すことにした。普段であれば財布から出すことを躊躇する、最高額紙幣。それを本日の散歩では、豪快に解き放っていいのである。なんてことだ。

歩き始めた瞬間から、浮かれた気分が現れる。見飽きているはずの近所の景色が、妙にギラギラと光って見えるではないか。成金が百円札に火をつけて「どうだ 明るくなったろう」と暗い玄関を照らす有名な風刺画があるが、私のポケットの中にある一万円札もまた、散歩道をまぶしく照らしているのだ。

駅前のにぎやかなエリアへと足を向けると、さらに気分は高まった。右手の牛丼屋も、左手のドーナツ屋も、角のラーメン屋も、スパイスの香りを漂わせるカレー屋も、すべて自分の手中に収まっているような感覚。私はいま、どの店に入ってもいいのだ。そこで気の済むまで腹を満たしていいのだ。自由な一万円札を握りしめているだけで、街は巨大なビュッフェ会場へと姿を変えるのである。こんな贅沢な気分を、散歩で味わえるなんて。

住宅街の奥へ進んでいくと、寿司屋が登場する。値段を表示するボードなど掲げられていない、曇りガラスの小さな寿司屋である。ああ、すごい。いまの自分はこの店の暖簾(のれん)を平然とくぐり、その気になれば、不敵に大トロを注文することだってできるのだ。ただ店の前に立つだけで、背中に走るゾクッとした万能感。まるでこの街の主権を握ってしまったような。たったの一万円で、世界はすべて、自分のものになるのである。

散歩中にどんな店が現れようとも、一万円札を持っていれば、何も怖くはない。
散歩中にどんな店が現れようとも、一万円札を持っていれば、何も怖くはない。

私はもしかして貴族なのか

路地のカーブミラーに映り込む自分を見る。そこには安物のパーカーを着た中肉中背の男がいるはずだが、今日ばかりは「城下町をお忍びで視察する貴族」に見えるから不思議だ。一万円はそうやって、現実を格調高く書き換えてくれる。

私はどんどん歩を進めた。知らない川を渡って、知らない坂道を上って。そのうち、見たことのない団地が建ち並ぶ街路へと迷い込む。

普段の散歩では、こういう場面で必ず不安をよぎらせる。帰り道はどうするんだ、という不安である。散歩とは、常に「帰路の算段」との戦いでもあるのだ。ところが、今日はそのような不安を抱く必要はない。なぜか。だって私には、一万円がある。「帰り道がわからなくなったら、タクシーを使えばいいじゃない」と、心の中のマリー・アントワネットが豪気に私の背中を押す。自由だ。私はいま、どこまでだって歩いていける。そう、一万円を帯同させるだけで、人は限界を突破する散歩を果たすことができるのである。

3時間ほど歩いただろうか。見知らぬ公園のベンチで一息つく。ポケット中の一万円札は、まだ使われていない。私は、ふと冷静になった。いまの自分は寿司屋で豪遊することもできるし、タクシーで富豪のように帰宅することもできるわけだが、その「権利」を行使することなく、何も食べず、何も買わず、自分の足で帰宅したとしたら? それは、金に支配された資本主義社会において、金を握りしめながら金を使わないという、高度にして高潔な逆説的行為と言えるのではないか。それこそが、真に高貴な散歩の到達点なのではないか。

私は立ち上がった。帰ろう。徒歩で、一円も使わずに。この純粋な豊かさを胸に抱いたまま。

その30分後。私は街道沿いの回転寿司屋にいた。そして「今日は特別な日だから」と自分に言い訳をして、次々とネタを注文し、次々と皿を取っていた。お会計、八千円。散歩に必要なのは、勇気と想像力。そして「せっかく遠くまで来たのだから寿司くらい食べたっていいだろう」という出来心をねじ伏せる、ほんの少しの理性である。

文=ワクサカソウヘイ 写真=ワクサカソウヘイ、PhotoAC
『散歩の達人』2026年2月号より

金曜日の深夜、東京は白金台周辺の住宅街。私はある種の緊張感を携えながら、友人と共に散歩をしていた。
正直に告白する。私は、散歩に飽きている。街を歩くのは嫌いじゃない。むしろ、趣味の母体ですらある。散歩のない人生なんて考えられない。そう信じていたのに、同じ道を、同じ足で、同じように歩く、ということに、ある時からじんわりと退屈さを覚え始めてしまったのだ。