「おばけ煙突」の由来は……

この煙突、その愛称を誰が言い出したかはわからないが、4本の煙突が角度や距離によって1本、2本、3本に見えるから、あるいは、たまにしか煙を吐かない幽霊のような煙突だから、とも。しかしともかく、83・8mもの高さを誇る千住火力発電所の4本の煙突はその威容をもって一帯に愛されていた。

遠く離れれば1本にもなってしまうのが「おばけ煙突」たる所以。しかしその存在感たるや。
遠く離れれば1本にもなってしまうのが「おばけ煙突」たる所以。しかしその存在感たるや。
4本の煙突はひし形に配置されている。2本に見える場所も少なくなかったようだ。
4本の煙突はひし形に配置されている。2本に見える場所も少なくなかったようだ。
おばけ煙突を隅田川の向こう岸から撮った写真だろう。中央の2本が重なって3本に見える。
おばけ煙突を隅田川の向こう岸から撮った写真だろう。中央の2本が重なって3本に見える。

煙突の時代の証人たち

「ぼくの青春時代のシンボルだったねぇ」と語ってくれたのは、おばけ煙突のすぐ下で育ってきた中村正二さんだ。現在72歳、元宿堰(もとしゅくせき)稲荷神社の総代を務めている。この神社は煙突があった場所のすぐ近くにあり、また発電所の守護社でもあった。
「ぼくの通ってた学校は元宿小学校っていってね、いま煙突のモニュメントが帝京科学大学にあるでしょ。あそこにあったんです。本当に発電所のすぐ隣でね。煙突の上の方なんかは窓からのぞき出ないと見えなかったですよ。たまに遠くに出かけて帰ってくるときに煙突が見えると、ああ帰ってきたなぁって思ってね。やっぱりそういうところで育ってきましたからね、なくなるときはそりゃあ寂しかったですよ」

中村正二さん法子さん夫妻は、時間があれば元宿堰稲荷神社を開けている。子供も大人も 気軽に立ち寄る神社なのだ。
中村正二さん法子さん夫妻は、時間があれば元宿堰稲荷神社を開けている。子供も大人も 気軽に立ち寄る神社なのだ。
商売繁盛祈願のために東京電力が「元宿 堰稲荷神社」を守護社とした名残の碑。
商売繁盛祈願のために東京電力が「元宿 堰稲荷神社」を守護社とした名残の碑。

北千住の駅は煙突から少し離れており、駅近くで育った佐藤安昭さんは昭和12年(1937)生まれの82 歳。東京大空襲で焼け野原になった浅草から引っ越してきた。「あんときはすごかったですよ。ほんとになーんにもなくなっちゃってね。浅草から千住の方を見ると、瓦礫ばかりのだだっ広い向こうに煙突が大きく見えたんですよ。あれはよく覚えてます。ま、でもこっちに移ってからも煙突があったのはあくまで隣町の方で、わたしらの縄張りじゃなかったですからね。そんなに思い入れはないかな」

北千住から日光街道で荒川を越えると、おばけ煙突のような4本の小さい煙突が見える。この『山岸がくぶち店』を営む山岸正弘さん・桂子さん夫妻が改築の際に屋上につけたのだ。

「主人はここにずっと住んでいて近くから煙突を見ていたんですけれど、わたしの出身の草加市からもよく見えましたよ。煙突がなくなるときはまだ学生で、通学に東武電車を使っていましたから、電車から少しずつなくなっていく煙突を見ていました。わたしたちは煙突が縁で出会ったわけではないですけれど、やっぱりふたりに共通する思い出でもあるので、車で通る人がうちを見たときに、おばけ煙突があったことを思い出したり知ってもらったりしてもらえたらうれしいですね」。

『山岸がくぶち店』の山岸正弘さんと桂子さん。 この煙突がランドマークだったことを夫婦で 記憶しているのもうらやましい。
『山岸がくぶち店』の山岸正弘さんと桂子さん。 この煙突がランドマークだったことを夫婦で 記憶しているのもうらやましい。
『山岸がくぶち店』の屋上に立つモニュメント。日光街道の高架からばっちり見られるぞ。
『山岸がくぶち店』の屋上に立つモニュメント。日光街道の高架からばっちり見られるぞ。

今でも見れる! おばけ煙突の遺構とモニュメント

元宿小跡地に立つ「帝京科学大学」構内に煙突外壁に使われた鉄の覆いがモニュメントとして残る。
元宿小跡地に立つ「帝京科学大学」構内に煙突外壁に使われた鉄の覆いがモニュメントとして残る。
発電所跡地から東へ徒歩10分強。「千住公園」にも煙突を記念して作られたと思しき何かが。
発電所跡地から東へ徒歩10分強。「千住公園」にも煙突を記念して作られたと思しき何かが。
『足立区立郷土博物館』にある千住火力発電所の1/ 200の模型。その大きさ、煙突の高さに驚く。
『足立区立郷土博物館』にある千住火力発電所の1/ 200の模型。その大きさ、煙突の高さに驚く。

千住火力発電所は昭和38年(1963)にその役目を終えた。煙突だけでも残せないかと保存運動が起こり、煙突によじ登る人まであらわれた。この5年前には山の手に東京タワーができたけれど、決してこの代わりにはならなかった。なぜなら小津安二郎の『東京物語』やその他多くの映画に見られるように、この煙突は「下町」のシンボルだったのだ。日々を一生懸命に生きる、東京の庶民の象徴だったのだ。

取材・文・撮影=かつとんたろう 写真提供=足立区立郷土博物館 構成=さんたつ編集部

散歩の達人2019年7月号より