先日、画家・小川雅章さんの個展「のら百景」を見に、なんばの雑貨店『オソブランコ』に併設されたギャラリーを訪ねた。
小川雅章さんは、1990年代~2000年代初頭あたりにかけて大阪の工業地帯や港湾エリアを歩き、その風景を写真に撮っていた。時が経ち、写真に撮られた風景も大きく様変わりした。小川さんが、かつて自分が撮った写真を元に、失われた景色を絵として再現し始めたのは十数年前のことだという。
と、これらの情報は以前、小川さんを取材させていただいた際に伺ったことなのだが、その小川さんの新作が並ぶ展覧会とのことで、楽しみにしていたのだ。
小川さんの絵には、大阪の川と船がたくさん描かれている。大きな工場が立ち並ぶ風景の中を行き交う船は、たとえば見渡す限りの水平船に浮かぶ船とは違って、生活感に溢(あふ)れた姿をしているが、それゆえ、そこに確かに人がいるという感じがして、愛しさをおぼえる。
渡船が描かれた作品もあり、その絵をじっと見ていると、また大阪の渡船に乗って、渡船場の集中している大阪市の西側の街を歩いてみたいという気持ちが沸き起こってくる。
この絵の通りの風景はもうないのだろうけど、それでも、その残像ぐらいは感じられそうな気がする。小川さんの絵をゆっくり眺め、私は渡船に乗りに行こうと決めた。
甚兵衛渡船に乗って尻無川を渡る
JR大阪環状線に乗り、弁天町駅で電車を降りた。弁天町駅は大阪・関西万博会場への主要な乗り換え駅として利用されており、特に会期の終盤は常に混雑していたが、閉幕後の今は打って変わって静かだ。駅舎や街のところどころに万博関連の掲示物がまだあって、その残り香を感じつつ南へと歩く。尻無川の川べりを、流れに沿うようにさらに南下すると、アーチ型の巨大な水門が見えてくる。
大きな工場が立ち並ぶ道路をさらに南へ進むと、「甚兵衛(じんべえ)渡船場」の案内板が見えた。甚兵衛渡船は大阪市に現存する8つの渡船の一つで、尻無川に隔てられた港区福崎と大正区泉尾を結んでいる。その名は、甚兵衛という人物がかつてここで渡船業を営んでいたことに由来するそう。
対岸との距離は約94mで、向こう岸に停泊していた船が動き出したと思うと、1分ほどでもうこちら側へ到着する。とても短い距離に思えるが、地理的に橋を架けることが難しいこの場所で、渡船は“道路”と同じ扱いで機能しており、それゆえに無料で運航されているのだ。平日は午前6時台から21時台まで、通勤・通学で利用者の多い時間帯は10分間隔で行き来している(運航時間は各渡船場によって異なる)。
港区福崎側から対岸まで、私も乗船してみる。「すずかぜ」という名の船で、最大46名の旅客が乗船することができる。私が乗ったのは午後3時近く、比較的すいている時間のようだったが、それでも、自転車を引っ張りながら5名ほどの方が乗船していた。
先に書いた通り、乗船時間はたった1分ほどと短いが、川面に近い位置から尻無川水門を眺めるひとときが心地よかった。
それにしてもあまりにあっという間の船旅で、「本当に今、自分は船に乗ってきたのだろうか」と、信じられないような気持ちになる。静かな船着き場の雰囲気をしばし眺め、大正区の西の端から東の端へと、別の渡船場を目指して歩いてみることにする。
大阪市の西側に位置する大正区は、尻無川と木津川に挟まれるようにして区域が縦型に広がっている。その北端にはJR大阪環状線の大正駅があるのだが、そこから区の中央部や南部へ行くにはバスや自転車が必須な距離感だ。8カ所ある渡船のうち、「天保山渡船」以外のすべてが大正区に乗り入れているのは、その地形上の理由も大きいのだと思う。
渡船が身近にある大阪市大正区
大正区は明治時代から工業地帯として発展してきたエリアで、仕事を求めて多くの人が移り住んで来た土地でもある。特に大正時代からは沖縄からの移住者が増加し、沖縄と大阪の文化が影響し合いながら歴史を紡いできた。
今もあちこちに点在する町工場や、沖縄料理を出す店などを目にしながら街を歩く。普段から電車移動が中心の私にとってはなかなか歩く機会の少ない大正区の中心部だからこそ、街並みが新鮮に感じられ、今後は今日のように渡船を使って散策してみるものいいなと思う。
大正区を横断するように東へ東へと30分ほど歩き、「落合上渡船場」へやってきた。大正区千島と西成区北津守の間を流れる木津川を渡す船で、岸壁の間は約100mだという。
スロープを上がるようにして乗り場へ向かうと、高台から渡船を見下ろすことができた。高い場所から眺めると船の形状がよくわかる。
乗船すると、こちらでは緑色に塗装されたアーチ型の木津川水門が見えた。この水門、月一度ほどのペースで開閉の試運転が行われているそうで、いつか動く姿を見てみたいと思った。
西成区北津守側にたどり着き、船着き場で待っていた人々を乗せてまたすぐに向こう側へと帰っていく船を眺める。船の上から眺める景色も楽しいが、川を行き来する渡船を遠くから見るのも、また楽しい。
西成区側の渡船場付近をしばらく散策し、再び船に乗って大正区側へと戻ることにする。そこから少し歩き、以前、取材で立ち寄ったことのあった『丹後屋酒店』という角打ちへ行ってみる。日替わりの手作り総菜が並び、安く美味(おい)しく飲んでいける名店だ。
マカロニグラタンを味わいながら瓶ビールを飲んで、一息つく。お店の方に聞くと、落合上渡船場が近いこの店にとって渡船は身近な存在で、西成区側に買い物に行くために利用することもあれば、渡船に乗ってここまで飲みに来る人もいるとのこと。
今日、自分も渡船に乗ってここに飲みに来たと、言えなくもない。なんだか小粋な散歩をしているような気が急にして、愉快になった。私が一人で飲んでいる隣のテーブルには、ご常連さんらしき方々が賑(にぎ)やかに集まっている。
その中のお一人が豚足を注文していたのだが、それを食べた後、指についた豚足の脂について話しているのが聞こえた。いわく「豚足の脂はティッシュで拭こうとするとティッシュが指に貼りついてしまってかえってよくない。こうやって肌に塗るのが一番だ」と、反対側の腕に脂を擦り付けている。「見てみぃ! ツルツルや!」という声が聞こえて、隣にで思わず笑ってしまいそうになった。
こうやってなんでも痛快に笑い飛ばしていこうという姿勢が大阪にはあって、東京から移り住んできた私はそのセンスに憧れるばかりだ。
夜になるまで大阪の川を堪能した
ほろ酔い気分で店を出てバスでJR大正駅前まで戻る。本当はそこからバスを乗り継ぎ、天保山エリアからUSJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)のあるエリアまで、「キャプテンライン」という船に乗って移動してみようと思っていたのだ。しかし、最終便の時間にどうしても間に合わなそうだった。
天保山渡船と同じく、天保山-USJ間を行き来する手段として便利な「キャプテンライン」。いつか乗ってみたいと思いつつ、それはまたの機会にして、電車を乗り継いでユニバーサルシティ駅まで向かうことにした。
ユニバーサルシティ駅は人気テーマパークのUSJの最寄り駅なのだが、私がなぜそこへ向かおうとしていたかというと、その日、ライター仲間のパリッコさんとその周辺で会おうと約束していたからだった。
パリッコさんは前日からご家族と共にUSJに遊びに来ており、近くのホテルに宿泊しているとのこと。もちろん、一番の目的はUSJをたっぷり満喫することだが、夜、ホテルに戻ってからしばらく時間が空くという。
そこで、パリッコさんが宿に戻ったタイミングでUSJ近くに集合し、海辺で乾杯をしようということになっていたのだった。
連絡を取り合い、親しい飲み仲間も含めた3人が駅前で合流した後、それぞれ飲み物を買って「ユニバーサルシティポート」の方へと歩く。
ユニバーサルシティポートは先述のキャプテンラインの発着所でもある船着き場で、その周辺が広場として整備されている。
時間も遅く、船はもうどこにも見当たらないが、大阪の湾岸近くの風に吹かれながら夜景を眺められるスポットで、私はこの場所がすごく好きなのだ。
目の前には安治川の広い流れがある。夜の水面を眺めていると、改めて大阪は川の多い街だなと思う。だからこそ、古くから海運が栄えて街が発展してきたし、渡船が今に残ってもいるのだろう。
明るいうちは渡船に乗り、夜は水面をじっと眺めて、大阪の川をたっぷり味わった一日になった。
河川・渡船管理事務所で貴重な写真を見せてもらう
後日、大阪市の渡船を運営している「大阪市建設局 河川・渡船管理事務所」を訪ね、お話を伺った。
2024年度の渡船交通量調査では、年間の利用者数は8カ所の渡船場の合計で160万人以上になるそうで、そのうち、最も利用者が多いのは、通勤・通学の足としても重宝される甚兵衛渡船場だとのこと。
どんな点に気をつけて運航しているかという点について事務員の方に伺った。
「人の命を乗せているので、やはり一番大事にしているのは安全性です。渡船の運航上、視界の確保が重要で、対岸への視認性が下がるほどの荒天や濃霧などが発生すれば船長が判断し、河川・渡船管理事務所と確認を取り合って運航を停止することもあります。皆さまに安心してご利用いただける交通手段として、年間364日、1月1日以外は運航しています」
現在8カ所ある渡船だが、昭和10年代には30カ所以上もあったという。戦後の道路の整備などによってそれが次第に減り、昭和53年(1978)には12カ所になり、30年ほど前に現在の数に落ち着いた。
あくまで交通手段としての役割がメインだが、観光目的で利用する方も多いそうで、特に天保山渡船場は大型の水族館「海遊館」などがある天保山エリアとUSJのある此花(このはな)区桜島の間を行き来する手段としても人気だそう。
また、近年では大阪観光ツアーのルートの中に渡船が組み入れられるケースも増えており、団体客が利用することもあるとか。近隣の小学校の生徒たちが遠足の途中に乗ることもあるそう。
事務所で保管されている古い渡船の写真を見せていただいた。モノクロの写真も多く、日々の運航の歴史がずっと積み重なってきたことを感じながら一枚ずつ見ていく。
渡船を題材に写真展を開催したカメラマンから寄贈されたものなどもあるらしかった。
私が落合上渡船に乗船した際、停泊中の船の周囲に渡船スタッフの方が集まり、作業の流れをレクチャーしているらしき様子を見た。「あれは何をしていたんでしょうか?」と聞くと、「渡船職員は3、4年間隔で各渡船場に転任することになっています。みんな操船の腕は抜群なんですが、各渡船場によって勝手が違う部分があるので、技術を共有し合っているんです」とのことだった。そういうことが地道に繰り返された上で、今日も渡船が岸と岸の間を行き来しているのだ。そのありがたみを感じながら、また川の上の一瞬の旅を味わいに行こうと思った。
「大阪市の渡船」詳細
文・写真=スズキナオ







