スズキナオ
1979年、東京・日本橋浜町生まれ、大阪在住のライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』などを中心に執筆中。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』『家から5分の旅館に泊まる』(スタンド・ブックス)、『大阪環状線 降りて歩いて飲んでみる』(LLCインセクツ)などがある。
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大好きな新大橋からの眺め
私の両親は東北の山形県の出身で、私が生まれる少し前に東京に移り住んだ。父は江戸文化に興味があって、東京で伝統工芸に関わるような仕事がしたかったらしい。東京に出てきた当初は江東区の清澄あたりにあった古いアパートで暮らしていたようだ。私はもうその頃には生まれていたはずだが、そのアパートの記憶はない。物心がついた時には浜町にいて、私が“実家”とか“地元”という言葉を使う時は、浜町やその周辺を頭に思い浮かべている。
私たち一家は、1983年か84年頃に浜町に引っ越してきたのではないか。私は1979年生まれなのだが、自分の最初の記憶は、浜町のマンションの一室で、父と母に挟まれるように布団の上でゴロゴロしていて、カーテンを通して日差しが入ってきて、その時は「幸せ」という言葉はまだわからなかったが、後で思えばあれは幸せという言葉で示されるような場面だったのだと思う。
山形を離れて都会で暮らすことになった母は、景色を広く見渡せないということに息が詰まるようだったと言っていた。40年以上前の東京の話だから、今よりはだいぶ建物も低かっただろうが、それでも山形の景色とは大違いだった。それが浜町に越してくると、近くの新大橋から隅田川の広がりを眺めることができるようになった。そのことは母の心をだいぶ落ち着かせたらしい。私も新大橋からの眺めが大好きで、子供の頃から、何か気が塞ふさぐようなことがあればすぐに新大橋まで歩いて川を見ていた。
うちの実家は浜町公園近くのマンションの一室で、母によれば、80年代前半頃はまだ近辺に高い建物もなかったらしい。周りにマンションがたくさん建つようになるここ十数年前まで実家の部屋の窓から隅田川が見えたという。川風のおかげで夏も涼しかったと、これは父の回想だ。
ワイルドな浜町公園が遊び場だった
近所の子供にとって、遊び場といえば浜町公園だった。隅田川沿いに広がる、昭和4年(1929)に開園した歴史ある公園で、中央区内で最も広い公園らしい。私が高校生ぐらいの頃だから、90年代の半ばあたりか、大きな改修工事があって姿を変え、整然とした公園になった。
その改修前の公園が私はすごく好きだった。樹木がたくさん生えていて、鬱蒼(うっそう)とした一角があって、そこにダンボールで基地を作って遊んだり、園内に流れる小川でザリガニを釣って遊んだりした。隅田川に近い端には滝も造られていて、その上を探検するのも楽しかった。公衆トイレの壁をキャッチャーがわりに、ゴムボールとプラスチックのバットで野球をするのも好きだった。私には妹が2人いるのだが、その2人の妹ともよく浜町公園で遊んだ。
改修された後の公園は以前の姿がもう想像できないほどに見通しがよくなった。隅田川沿いにはバーベキュー場も造られた。今も園内には小川が流れているが、すごく整った、綺麗(きれい)なものになっている。自分が子供の頃は、公園なんて隠れる場所があればあるほど楽しいと思っていたけど、今、小さな子供をこの公園で遊ばせる保護者の方々にしてみれば、自分の子供の姿がいつも視界に入っているような公園の方を望むだろう。
「昔の浜町公園はよかった」と、つい言ってしまいたくなるけど、今の公園には、今の子供たちの思い出が積み重なっているのだろう。
実家で飼っていた「モモ」という猫は、ラジオ体操の帰りに高い木から降りられなくなって「ニャアニャア」と鳴いているのを当時小学生だった私と妹が見つけ、父に頼んで救助してもらった。当時は園内にあった児童館の屋根に父が上がり、そこから木によじ登って捕まえてくれた。それから19年も我が家の猫として生きてくれたのだが、あのモモとの出会いも、何かとワイルドだったかつての浜町公園があってこそだったろうと思う。
「日本橋浜町の出身で」と人に話すと「すごい都会ですね! うらやましい!」と言われることが多いのだが、子供の頃は何もない街だと思っていた。いや、もちろん広い公園があって、隅田川があって、環境は恵まれているのだと思うが、友達と一緒に行けるようなおもちゃ屋があったり、買い食いできる飲食店があったり、ゲームセンターがあったり、子供にとってはそういう街こそ魅力的に感じるものだ。
「せめてあと50回は食べたい」
小学生の頃、浜町公園の近くに「ビックリハウス」という駄菓子屋さんができて、その店が開店した当初は、自分の人生が金色に光り輝いたかのようにうれしかった。しかし、その店はほどなくして閉店してしまい、人形町にあった古いおもちゃ屋も、よく立ち読みした本屋も、CDショップも、次第に姿を消していった。
自転車で隅田川を越えて森下や大島あたりに行く方が断然楽しかった。私が求めている魅力的な街はそっちだった。浜町や人形町が好きだと思えてきたのはかなり大人になってからのことだ。実家を離れてだいぶ経って、おいしいものを食べたり、それに合わせてお酒を飲む楽しさがわかってくると、地元のあちこちに残る老舗が魅力的に思えてくる。街の歴史が徐々に実感されるようになっていく。
また、浜町や人形町の落ち着いた雰囲気は東京でもこのあたり特有で、貴重なものだということもわかった。
明治座から人形町駅方面へと続く甘酒横丁が好きで、よく歩く。大阪から訪ねてくるたびに通り沿いの店が少しずつ変わり、自分が好きなお店がまだ残っていることに安堵(あんど)する。老舗中華料理店『生駒軒』のあっさりしたタンメンが私は大好きで、東京にいる間、必ず一度は食べるようにしている。店主もお歳を召されていると思うが、何度食べても「せめてあと50回は食べたい」と思ってしまう。
明治座近くにあった蕎麦屋「浜町 藪そば」は2025年3月末で突如(とつじょ)店を閉めてしまった。『生駒軒』ほどは通えていなかったけど、ここのカレー南蛮が好きだった。閉店するなどと思いもよらず、その一カ月前に父とここにふらっと入ってお酒を飲めた、その思い出を大事にしていこうと思う。
今度、私が通っていた日本橋中学校の校舎が改築されることになり、その期間、浜町公園の園内に仮校舎が作られるのだという。街のどこがどんな風に変化していくのか、それが街全体にどんな影響を与えていくのか、私はもう浜町を離れてだいぶ経ってしまったけど、その様子を、元地元民として眺めていきたい。
文・写真=スズキナオ
『散歩の達人』2025年5月号より