丁寧に整えられた一杯
「最初は生麺のそばでやろうと思ったんですが、本当に香りのいいそばって塩で食べるか、究極的にはおいしい水だけで食べるのが一番なんです。それは難しいんで、じゃあツユに力を入れようかってなったんです」
これは店主の倉持徳則(よしのり)さんに、店を始めるときにどういうそばを作ろうと考えていたのか聞いたところ、返ってきた答え。「塩で食べる」「水だけで食べる」……立ち食いそばの店主からこんな言葉が出てくるとは思わなかった。
つまりそれだけ、倉持さんは本格派なのである。
スピード重視でそばはゆで麺を使用することとなったが、力を入れたというツユはちょっとすごい。ひと口すすると、パンチのきいた立ち食いそばのツユに慣れた舌には、ちょっと物足りなく感じる。しかしながら、飲み下したあとに旨味と香りがしっかりと残る。乱暴な言い方をすると、高級な和食のツユの味わいだ。
ツユをまとったそばをすすると、ジワジワと旨さが広がっていく。この日はおかひじきと鶏の天ぷらをのせたのだが、このツユに浸した天ぷらがまたいい。シャキッとした食感が残るおかひじきは味こそ淡白だが、ツユに合わさると、途端にイキイキしてくる。鶏天も下味がちゃんとつけられていて、ツユで旨味がブーストされる。このツユがあってのこの味なんだということが、はっきりわかるのだ。
すごく丁寧に整えられた一杯。
正直、立ち食いそばでこんな一杯が食べられるとは思わなかった。しかし、2024年現在60歳である倉持さんの経歴を聞けば、さもありなんの旨さなのだ。
スタートはフレンチだったが
倉持さんは茨城県下館の出身で、父親は地元で町中華の店をやっていた。父親の店を継ぐつもりだった倉持さんは、まずは幅広く勉強するため、高校卒業後に県内のフランス料理店で働き始めた。しかし入って1年ぐらいでグランドシェフがやめることになり、一緒に店を辞めることに。
今度は都内にある高級割烹の店から声がかかり、そこで働くことになった。ここから和食の道を歩むことになる。さらに親方に言われて違う店へ。以来、さまざまな店で働き、料理長も務め、割烹料理から弁当まで多種多様な和食を手掛けることになる。
最後のほうは大規模店のメニュー開発に携わるのだが、定年を前にして退職。これまで自分が作ってきたものとは違う、身近な日常食の店をやってみたいと『えんば』を始めたのだという。ツユと天ぷらとそばの調和がドンピシャなのは、倉持さんが長年、培ってきた技術とセンスが注ぎ込まれているからなのだ。
信念が詰まったツユ
では、天ぷら以外のタネならどうなるのだろうかと、きのこそばバター乗せを頼んでみた。たっぷりのったきのこの旨味を、ツユがしっかりと下支えしている。さらにバターの芳醇なコクが、その旨味をぐいっと広げる。これはテンションの上がる旨さだった。
店を始めた当初から「ツユに力を入れて」きたわけだが、最初からうまくいったわけではなかった。最初はもっとしょうゆが立っていた感じ。その次にかつおだしが前に出るような感じ。そして現在のようなバランス重視のツユと、微妙にチューニングをしてきた。
ダシに合わせるかえしも凝っていて、しょうゆは3種類をブレンド。みりんも三河の「九重みりん」を使っている。ダシは変えたが、かえしは当初から変えていないと言い切る倉持さん。
正直、立ち食いそばとしては異色のツユだ。
始める際に立ち食いそば好きに受け入れられるか不安はなかったかと聞いたところ、倉持さんは「なかったです。これは信念ですから。長くても1年かければわかってもらえると思っていました」という、男前な答えが返ってきた。料理の世界に40年以上、身をおいていた人間の重みだ。
ちなみにかき揚げやゲソなどの定番天ぷらもあるが、かき揚げは衣が薄めになっている。また、ゲソは揚げる前に一昼夜、料理酒としょうがで漬け込むのだという。考えて、ちゃんと手間をかける。料理の基本かもしれないが、それをやるからこその、この旨さなのだ。
衣の厚い天ぷらをどっぷり浸して食べるのなら、かえしのきいた濃いツユはいいだろう。だが『えんば』のように天ぷらの素材のよさが引き立つツユもいい。そのよさは1年もかからずに伝わったようで、今では常連客が切れ目なく訪れる人気店となっている。
倉持さんは寒くなったらけんちんそばをやりたいと言っていた。このツユと根菜の旨味が合わさったツユは格別だろう。寒いのは苦手なのだが、冬が来るのが少し楽しみになった。
取材・撮影・文=本橋隆司