先日、サウナでこんなことがあった。

初めて訪れたその店には大抵のサウナに備わっている壁掛けのタイマーがなく、代わりに10個ほどの砂時計が一定間隔で配置されていた。私はサウナには決まって6分以上入るようにしている。空いている席に腰をおろし一番手近にあった砂時計をひっくり返した。

2分ほど経った頃だろうか、新たに入室してきた40代くらいの男性が私の前に座った。そしてその人は私と彼との間にあった、私が時間を計っていた砂時計をいきなりひっくり返してしまった。まだ少量の砂しか落ちていないところを見れば他の誰か(おそらく最も近くにいる私)がいましがた時間を計り始めたとわかりそうなものだが。室内には他にいくらでも砂時計はあるし、わざわざ私の近くに来ないで他のものを使えばいいじゃないか。それに中途半端に砂が落ちたものをひっくり返したところで、ちゃんとした時間を計れないはずだ。なんなんだこいつは、と幾分腹が立った。

私のとるべきベストな対応は「すいません、これ今僕が使ってるんで」と伝え、すぐに砂時計を元に戻すことだっただろう。だが私は何も言わなかった。常識外れな行動を自然と振る舞うその人とは話が通じないのではないかという一抹の不安もあった。まあ時間なんか計れなくたって大した問題じゃないし、広い心で受け流せばいいじゃないか。そのときはそんな風に思い込んだつもりだったが、あれから数カ月経った今でも思い出してはモヤモヤしている。勝手に砂時計をひっくり返されたのがなんとも絶妙に不快だったというのもあるが、それよりも不満を抱いていながら相手に何も伝えられなかったことへの後悔の方が大きいのだと思う。

困っているとは限らない

私は他人に親切にするような場面においてもなかなか声をかけられない。

たとえば電車で私が座っている目の前に高齢者がやってきたとき。当然席を譲るべきだと思う。むしろ譲らない方が「あいつ席譲らねえぞ」という周りの視線を意識してしまってよっぽどストレスが大きい。ただ、立ち上がって「どうぞ」と席を譲った場合、いかにも“いい人”みたいな空気になるのが自分に合っていない気がして恥ずかしいのだ。譲った後にどんな顔をすればいいのかもわからない。そういうときは次の駅までは黙って座り続け、駅に着いたら電車をいったん降りてホームを移動し別の車両から再び乗り直すようにしている。まあ結果的に席を譲ったことにはなるが、声をかけることから逃げてしまったフラストレーションは残ったままだ。

昔、ある有名ミュージシャンが音楽雑誌のインタビューでこんなことを語っていた。小学生の頃、道徳の授業で「目が見えない人を見かけたら声をかけて助けてあげましょう」と教える先生に対し、彼は「目が見えない人が全員、助けを求めているわけではないと思います。また、実際に困っているとしても他人の手を借りず自分の力で解決したいと思っているかもしれない。求められてもいないのにこちらが勝手に助けようとするのはその人への侮辱にあたる場合もあるんじゃないですか」と意見したというのだ。

それを読んで当時の私は大変驚いた。自分にはない発想だと思ったし、小学生にして道徳の教科書に疑問を投げかける彼の知性に「やっぱすごいミュージシャンは違うわ」と素直に感心した。今でも街で困っていそうな人を見かけるたび、私は彼の話を思い出す。もっとも、この話は私にとっては行動を回避するための言い訳にしかなっていないようにも感じる。

ある時、白杖の女性が地下鉄の階段を降りようとしているのを見かけた。彼女の歩き方は私の目にやや頼りなさそうに映り、何か声をかけて手伝った方がいいような気もしたが、その際もあのミュージシャンの話が頭をよぎった。地下鉄に乗るなど彼女にとっては日常茶飯事かもしれない。それでも何か不安に感じ様子を見守っていたら彼女はつまずいて10段ほど下に転げ落ちてしまった。すぐさま駆け寄って助け起こし「大丈夫ですか?」と声をかけたものの、心の中で激しい自己嫌悪に襲われた。

不安に感じたのならとりあえず声をかければよかったじゃないか。もし他人の手助けが必要なければ相手が断るだけの話だ。いや、本当は気づいていた。私はその人が助けを必要としているかどうかを見極めようとしていたのではなく、自分が声をかけるべきか否かのギリギリのラインを見極めようとし、声をかけなくてもいいと思える理由を探していたのだ。

道端で倒れている人の横をたくさんの人たちが通り過ぎたにもかかわらず、誰も助けなかったせいでその人は死んでしまった、というようなニュースを耳にすると、殺人事件などよりも不快に感じる。それはきっと、自分も同じことをしてしまう危険があると感じているからだと思う。

最近は道で酔い潰れて寝ている人を見かけたら水を買って渡したりしている。だが、声をかけるのが苦手だという理由から「……まあ大丈夫か」と判断してしまっているケースもまだまだあるようにも思う。

昔は、見知らぬ子供や店員に友達かの如(ごと)く話しかけるおっさんが地元にもよくいた。ああいうおっさんに自分もいずれなりたいと思うが、その道のりはまだまだ遠い。

※写真と本文とは直接関係ありません。
※写真と本文とは直接関係ありません。

文=吉田靖直 撮影=鈴木愛子
『散歩の達人』2024年4月号より

20代後半あたりから地元の同級生がどんどん結婚し始めた。友人から結婚の報告があるたび「よかったな、おめでとう」と笑顔で祝福しつつ心の中では「ようやるわ」と思っていた。うらやましいと感じることもなかった。
知人の飲み会で一度だけ会った文芸誌の編集者から連絡があり打ち合わせをすることになった。コーヒーをすすりながら「最近は何やってるんですか」「実家にはよく帰るんですか」と世間話のような質問に答えていたら数十分が過ぎていた。相手は私に仕事を頼むつもりだったのに、私の返答のレベルが低すぎたせいで「やっぱこいつダメだ」と見切られてしまったんじゃないか。そんな不安がよぎり始めた頃、編集者は突然「吉田さん、小説を書いてみませんか」と言った。私は虛をつかれたような顔をして「小説かあ……いつか書いてみたいとは思ってたんですけどね。でも自分に書けるかどうか」などとゴニョゴニョ言いながら、顔がニヤつきそうになるのを必死にこらえていた。本当は打ち合わせを持ちかけられた時点で小説の執筆を依頼されることに期待していたのだ。「まあ……なんとか頑張ってみます」と弱気な返事をしつつ、胸の内は小説執筆への熱い思いで滾(たぎ)っていた。
できるだけ怒られたくないと思って生きている。誰でも基本的には怒られたくないものだと思うが、私は怒られることによるダメージを人一倍受けやすい方だと感じる。よく「私のために本気で怒ってくれてうれしかった」などとのたまう人がいるが、意味は理解できても感覚的に理解できない。どれだけ自分のことを考えてくれていたとしても、あるいは自分に非があったとしても、怒られたら条件反射的に負の感情を抱いてしまう。