誰かの記憶を通して語られる街や旅の話は、不思議なほど心に染み込んでくる。ちょっとした逸話が添えられるだけで、情報に色が加わり、味がつき、においがする。
小誌「散歩の達人」の役割も、ちょっと似ているのではないかと思う。単に事実を羅列したガイドブックや街歩きのための道具ではなく、人間が見て、考えて、選んだことを届けているからだ。客観的な視点ではないし公明正大とも言い難いけれど、だからこそ街歩きのお供にしてほしい。
そんなことを考えて、“思い出を語る”エッセイ集を選んだ。まだ見ぬ街やものごとに彩りを添えてくれるであろう3冊だ。特に『いとしいたべもの』は、中村の本棚の特等席に15年近く君臨する愛読書。本書に登場する舟和のいもようかんを食べたくて、地方から上京した直後いそいそと浅草へ向かった記憶がある。
歩いたことも食べたこともないのに、すっかり愛着が沸いてしまう。恋焦がれたり、思いを馳せたりできる。そんな読書時間をどうぞ。
『東京困惑日記』原田宗典 著
ばかばかしくも愛おしいとはこのこと
著者が学生の頃の破廉恥でおまぬけな失敗談が次々と飛び出し、そのくだらない内容と軽妙な語り口調で、ニヤニヤしながらさらりと読み切れる。1980年頃の東京の雰囲気が香り立ち、当時の苦学生の暮らしぶりも垣間見えて、知らない時代を追体験する気分になる。1991年/角川書店刊
『旅のつばくろ』沢木耕太郎 著
旅して、出会って、考えて、思う
JR東日本の車内誌『トランヴェール』で連載されていたエッセイの単行本。旅先でのできごとが優しくていねいに描かれていて、新幹線や特急に乗るたび読みふけっていた方も多いかもしれない。こうして1冊になると、旅の途中に読むのとはひと味違うのも興味深い。2020年/新潮社刊
『いとしいたべもの』森下典子 著
“グルメ”ではなく、“たべもの”のおはなし
たねやの水羊羹、柳屋のたいやき、崎陽軒のシウマイ弁当……「おいしい」に留まらない、たべものの思い出を綴るエッセイ。懐かしいあの味に恋焦がれたり、おぼれたり、あるときは幻滅したり、恨んだり。人間臭くてキュートなエピソードに、笑ったり泣いたりできる1冊。2006年/世界文化社刊
おまけに……「東京ビートルズ地図」
これは「ビートルズを聴けるカフェやバー、ライブハウスを紹介する本」なのだけれど、その説明は事実であって真実ではない。「ビートルズを愛してやまない店主と、彼らの思いを紹介する本」、これが正解だ。
好きな音楽はひとつでも、その出合い方や愛で方は十人十色。曲ひとつとっても、いろんな人のさまざまな思い出が染みついている。この本で触れたのはそんな思い出のほんの一部だけれど、ページをめくっていれば、自分の思い出の曲がひとつやふたつ聞こえてくるんじゃないだろうか。
文・撮影=中村こより