東京大衆歌謡楽団
富山県出身、髙島家4兄弟からなるユニット。左から長男・孝太郎(唄)、四男・圭四郎(バンジョー)、三男・龍三郎(ウッドベース)、次男・雄次郎(アコーディオン)。古きよき昭和初期の流行歌にこだわり、浅草を拠点に近年は全国公演も積極的に行う。
楽団結成の根源の部分
「池袋でスケートボードをやっていたときに、その仲間で街に流れる音楽をつくろうという話になったんです。でも、屋外だから電気は使えない。だからアナログな楽器を揃えて、僕がヴァイオリン、雄次郎がアコーディオン、ほかにはトランペット、ウクレレなど、8人くらいでバンドを組みました」。長男の孝太郎さんはそう話す。
幼少時にはヴァイオリンを習い、パンク・ロックやスカなどジャンルにこだわらず音楽を聴いてきた。このバンドをきっかけに、電子にはないアナログ楽器独特のエネルギーを感じ始め、民族音楽や1940年代以前のジャズを聴くようになる
「そのエネルギーは“土のにおい”なんです。大地に根を下ろして生きる人たちが、たまたま手に取った楽器で演奏する。生活の中から出てくる音楽は強いエネルギーを放つ。そこにすごく興味を持ちました」。
バンドは1年半で解散し、孝太郎さんは故郷の富山へ戻り、生家で祖母と暮らし始める。
21歳のときだ。「土のエネルギーがあった時代を生きた祖母はどんな音楽を聴いていたのか、質問攻めにしました。『ストトン節』『私の青空』など、祖母が歌ってくれるのが好きでした」。
あるとき、弟の雄次郎さんからMDが送られてくる。NHKの『ラジオ深夜便』で流れていた『誰か故郷を想わざる』(唄・霧島昇/昭和15年)だった。「むかし友達と一緒の帰り道、流行っていた歌を歌いながら歩いた情景が、ぱっと浮かびました。2番の歌詞が流れたときに、近所の山で兄弟と遊んで、日が落ちるから早く帰っておいでって祖母が呼んでくれて……そうした家族と一緒に過ごした記憶が一気にフラッシュバックしてきて涙が止まらなくなったんです」。
当時、家族がばらばらに暮らしていたこともあり、共に生活していた思い出がすべて失われてしまったような喪失感におそわれていた。「今までやってきたことがどうでも良くなりました。自分が空っぽになって、これからどうしようかと考えたとき、これだけのことを思い出させてくれた音楽をやっていこうと思ったんです。すぐに雄次郎に電話して、送ってくれた曲を聴いて、この時代の音楽をやっていこうと思う、一緒にやってくれないかって言いました。それが、楽団結成の根源の部分です」。
兄弟4人でそれぞれの役割を持つ
東京大衆歌謡楽団の演奏は、最初の一音が鳴った瞬間から世界に引き込まれる。もの哀しさと、はつらつさが同居した孝太郎さんの歌が入ると、さらに世界は深まっていく。4人それぞれの領域が確立し、互いの音を尊重し、楽しんでいるのが伝わってくる。
幼少期、孝太郎さんはヴァイオリン、他の3人はピアノを習っていた。とはいえ、「熱心ではなかったし、音楽の素地はほぼない」という。
それでも、雄次郎さんは一時期習っていたこともあって、アコーディオンを担当。「懐メロに欠かせない楽器です。あの時代に一瞬で戻してくれるにおいが詰まっている」(孝太郎)。編曲と耳コピで楽譜におこす役目も担っている。
龍三郎さんは、会社に勤めていたときにウッドベース担当に誘われた。「体が大きいから絶対にいい音を出すはずだと思って弾かせてみたら、いきなりいい音が出た。必死におだてました」(孝太郎)。
圭四郎さんはスケートボードをやっていたが、お金にならず苦しんでいた。「龍三郎も入って、お客さんにも喜んでもらっている。バンジョーは四弦だからギターより簡単だって説得しました」(孝太郎)。こうして4人のバンドが結成された。
そうはいっても、龍三郎さんと圭四郎さんはほぼ初心者だ。「先生についてとにかく弾きまくって、半年くらいで人前で演奏しました。それまで僕は音楽というものが、全然分からなかったんですね。やり始めてから、兄2人が言うことが分かるようになりました。ウッドベースは低音域の部分なので、根底となるやわらかさみたいなのを表現したい」(龍三郎)。「はじめはアンコールで加わったりして、なんとか1年目からメインで出られるようになりました。既に龍三郎さんが加入して1年後、ベースとアコーディオンで編成が決まっている状態だったので、その隙間が僕の役割だと思っています。ベースが入った後に、裏打ちみたいにバンジョーの高い音域を入れていくイメージです」(圭四郎)。
歌で情景を描く。歌詞の力を伝える
「昭和歌謡は、聴いたときの良さと、演奏しているときの良さが違います。聴いているときは、音楽に包まれながら情景を思い浮かべて楽しむことが多いんですけど、演奏しているときは自分たちで描いていく。同じ曲でも、演奏する場所やそのときの社会情勢によって、情景の描き方が変わってくるんですね。一人一人が思い描く情景は違うかもしれないけれど、お客さんも僕たちも一つの感覚になる。うまくいったときは幸福に包み込まれます」(雄次郎)。「歌詞を聴いて思い浮かべるときに、共有しやすいということですね」(孝太郎)。
歌唱を担当する孝太郎さんは、歌詞に対する思いが深い。富山に戻ったとき、チンドン屋として働いていたことがある。民謡や祭り囃子など、自らが暮らす環境のなかで育んだ音楽の知識を元に、独自の解釈で鳴らす音に、土のエネルギーを感じたからだ。「老人ホームに行って『リンゴの唄』を演奏したことがありました。みんな楽しそうにのってくれているんですが、どこか物足りない感じになっている。歌いたいけど歌詞が思い出せないんですね。それで僕は楽器をやめて大きな声で歌ったんです。そうしたら、入居者さんたちで大合唱になった。当時は、懐メロの歌詞が格好悪いと思っていたんですが、この音楽を楽しむ人たちが必要としているものは“詩”だったんだって気づいたんです」。
それまで聴いていたパンク・ロックの歌詞は英語で、歌詞をかみしめて聴くことはなかったという。
「僕たちの世代からすると、『リンゴの唄』で描かれている情景は格好悪いものでした。でも、そうした自分の価値観を崩す力が、昭和歌謡の歌詞にはあります」(雄次郎)。「4人とも、自分たちでつくる音にのせる歌詞を把握しています。元の歌詞は練りに練られていて、波がありますよね。だから、聴く人を一番気持ちの良いところに連れていくのが、僕の役割だと思っています」(孝太郎)。
4人は、歌詞に描かれた情景を、それぞれの持ち場で懸命に表現している。伝えたいというその熱意に心動かされるのだ。
東京大衆歌謡楽団ゆかりのスポット
浅草神社 三社様
浅草寺の創建に尽くした3人を祭神として祀り、国の重要文化財に指定。江戸時代、三代将軍家光から寄進された社殿が今も残る。東京大衆歌謡楽団は境内の神楽殿の前で、定期的に奉納演奏(観覧無料)を行っている。
『待合室』
1963年創業。浅草六区通りにあり、店内は外の喧噪から逃れるには最適な落ち着ける空間だ。2階の『カナリヤホール』は、東京大衆歌謡楽団のホームグラウンド。コーヒー500円、ミックスサンド700円。
●9:00~18:00、水・木休。☎03-3841-1214
取材・文=屋敷直子 撮影=三浦孝明
『散歩の達人』2023年12月号より