今の私は、無難なオフィスカジュアルを着てビジネスの場に行ったり、慣れたそぶりで名刺交換をしたり、そうしたほうがいい場面では当たり障りのない雑談をしたり、多少納得がいかないことでも飲み込んだりする。社会人としての常識や態度を身に付け、身も心もすっかり丸くなった。
ただ、若い頃はそうではなかった。23歳くらいまでの私は、非常識でエキセントリックで、悪い意味で尖っていて、喜怒哀楽がどれも苛烈だった。言いたいことをオブラートに包むこともせず、とてもじゃないけれど社会で通用するような人間じゃなかった。
あんなに苛烈だった私が、今は普通の大人のような振る舞いをしている。
そのことに気づくたび、「今の私を彼女が見たらどう思うだろう?」と思う。
御茶ノ水の専門学校で文芸を学んでいたとき、彼女と出会った。実は彼女のことは、この連載が始まる前に書いたことがある。
以前のエッセイでは「Y」と書いたが、今回は仮に美冬としよう。
美冬は私が2年生のときに入学してきた。たしか、最初に会ったのは小説の授業だったと思う。素朴な雰囲気の子で、おもちみたいに真っ白でやわらかそうなほっぺたをしていた。授業が終わったあとに話してみたら同い年で、石川県出身だとわかった。
美冬は授業が終わると、余計な雑談をすることなくそそくさと帰ってしまう。飲み会にも参加しない。彼女はいつも不安そうな表情をしていて、コミュニケーションが得意ではないことは誰の目にもあきらかだった。
そんな美冬と私が仲良くできたのは、メールアドレスを交換したからだろう。美冬は喋るのは苦手だが、メールでは饒舌だった。おとなしい美冬とうるさい私は一見すると正反対だったが、「小説が好きで作家志望」という共通点があり、よくメールで小説の話をした。私は美冬が授業で発表する小説のファンだったし、美冬も、私の小説に一目置いてくれていた。
また、お互いメンタルに疾患を抱えていることも共通していた。病名は違う。美冬のほうが私よりずっと症状が重く、辛そうだった。彼女はたびたび調子を崩し、学校を長期間休むようになった。入院していたこともある。
私は美冬を心配しつつも、普通に学校生活を送っていた。私たちは小説で結びついているけれど、「親友」というほどではない。常に一緒にいるわけじゃないし、お互い、もっと仲がいい友達がいる。私と美冬が友達であることを知らない人もけっこういたと思う。
私は社会性のない若者だったが、美冬は私に輪をかけて「社会」が苦手そうだった。おとなしいが頑固で、小説ゼミの先生が美冬の小説にアドバイスしたときも、先生の意見を聞き入れなかった。かと思えば最後は「わかりました、納得いかないけど直せばいいんでしょう!」とやけくそになったりして、先生は陰で「美冬さんの指導が難しいよ~」と頭を抱えていた。私は「まあまあ、悪気はないですから」と先生を慰めた。
彼女は相手の言うことを額面通りに受け取りすぎたり、かと思えば裏を読みすぎたりすることもあった。在学中に彼氏ができたが、交際中もコミュニケーションでの悩みは多々あったようだ。私はたまにメールで彼女の相談に乗っていた。
私は人の相談に乗れるほどできた人間ではないのだけれど、美冬は私のことを、「頼りになるかっこいい友達」だと言ってくれた。それが、私は嬉しかった。
在学中、小説の同人誌を作ることになり、メンバーに美冬を誘った。王子のサイゼで語り合った柊子(仮名)も、御茶ノ水の駅前で一緒に犬を拾ったアミちゃん(仮名)も、この同人誌のメンバーだ。
私が卒業した翌年に同人誌の第二弾を出し、当時はまだ小規模だった文学フリマに出展した。そのとき、美冬は「人混みに耐えられる自信がない」と売り子を断ったが、お客さんとして顔を出してくれた。なんのためだったか、私が売り子、美冬が客として同人誌を買う(ふりをする)場面を写真に撮ることになり、その写真は今も私のアルバムに残っている。このときの美冬は、大きなファーのイヤーマフをしてヴィヴィアンウエストウッド(と思われる)服を着て、濃いメイクをしていた。美冬は人と目を合わせられない一方で、虹色のつけまつげをつけるのは平気な子だった。
この文学フリマが、美冬に会った最後になった。彼女は、27歳のときに自ら命を絶ったのだ。
彼女は学校を中退して、石川県の実家に戻っていた。病気のこともあり、働くことはしていなかった。彼女はデビューを目指して、ひたすら小説を書いていた。私はというと、とっくに小説を諦めて山小屋バイトに専念していたものの、「このままでいいのかな」と人生に悩んでいた。
私と美冬は文学フリマ以降会っていなかったけれど、お互いの近況はmixiで知っていたし、たまにメールもしていた。美冬は私の誕生日、日付が変わった瞬間にメールをくれる。毎年、美冬が一番乗りだ。
ただ、ある年の秋に美冬はmixiをやめた。そのとき私は電波が届かない場所にいたので、だいぶあとになってからそれを知った。そしてその翌年の3月、東日本大震災の数日後に彼女は逝ってしまった。
共通の友人は、「美冬ちゃんがmixiをやめたとき、嫌な予感がしたんだ。あのとき、メールすればよかった」と悔やんでいた。私は、友人や自分がメールしていたところで美冬を止めることはできなかっただろうな、と思う。美冬はかなり頑固だ。自分が決めたことは、周りから何を言われても曲げないだろう。
美冬が亡くなっても、しばらくは悲しいのかどうかわからなかった。最後に会ってから4年が経っている。メールだって、最近は頻繁にしていたわけじゃない。そんな私に、美冬の死を悲しむ権利なんてあるのか。
訃報を聞いてから、彼女のことを考えない日はなかった。20代前半の頃は一緒に作家を目指していたのに、どこで道が分かれたんだろう。美冬には、他の道はなかったんだろうか。
29歳のとき、結婚して夫と長旅に出ることになった。私たちは、海外に行く前に前哨戦として国内を旅することにした。この旅のテーマは「会いたい人に会う」で、福井では私の幼なじみに会ったし、島根では夫の友達夫婦に会った。私は、「金沢で美冬のお母さんに会って、一緒にお墓参りをしたい」と提案した。
美冬のお母さんとは、彼女の死後にfacebookでつながり、メッセージのやりとりをするようになっていた。美冬は母子家庭で、お母さんと仲がよかった。美冬は遅くに生まれた子どもで、彼女のお母さんは私の母よりもだいぶ年上だ。メッセージのやりとりから、優しくて愛情深い人という印象があった。
美冬のお母さんに会いたい旨をメールすると、快諾してくれた。
当日、私と夫は、金沢駅で美冬のお母さんと待ち合わせた。美冬のお母さんは、「よく来てくれたわねぇ!」と私たちを歓迎してくれた。私たちは、美冬のお母さんの車でお墓参りに向かった。11月の金沢はどんよりと曇っていた。
「私は山が好きだから、よく車で山の景色を見に行ったの。美冬は山には興味がないんだけど、助手席でお菓子を食べながら音楽を聴くのが好きだった。私があまりにも山に行きたがるものだから、美冬に『母さんの前世は熊だね』って呆れられてたわ」
美冬のお墓は、キリスト教の共同墓地だった。私は、お花屋さんで買った紫色中心のブーケを供える。美冬の好きな色がわからなかったから、なんとなく彼女のイメージで紫を選んだのだ。美冬のお母さんが「あら、あの子の好きそうな色の花束」と言った。
お墓参りが終わると、美冬のお母さんは車で金沢を案内してくれた。繁華街である香林坊のビルの前を通るとき、美冬のお母さんは「ここ、よく美冬を連れてきたの。あの子はヴィヴィアンとアナスイが好きだったから」と目を細めた。
その後は、美冬が通っていたというキリスト教の教会に寄ったり、金沢21世紀美術館のカフェでランチをしたり、兼六園に行ったりした。
美冬はこの街で、こんな景色を見て生きてきたのか。
金沢はとてもとても遠い場所だと思っていた。けれど実際に来てみたら、思っていたより時間もお金もかからなかった。なのにどうして、美冬が生きている間に来なかったんだろう。どうして、いつでも会えるなんて思ってしまったんだろう。
もっと早くに、美冬に会いに来ればよかった。会ったところで、彼女を思いとどまらせることはできなかっただろう。けれど会っていたら、少なくとも彼女との思い出がひとつ増えたのに。それは私にとって、とても大切なものなのに。
美冬が亡くなってから、私は結婚して長旅をしてライターになって離婚した。結婚している私も、ライターになった私も、美冬は知らない。
私は自分に変化が起こるたび、心の中で美冬に報告するようになった。「結婚したよ」「旅に出たよ」「ライターになったよ」「離婚したよ」。私のどんな報告を聞いても、美冬はたいして驚かないだろう。
だけど、背中を丸めて名刺交換をしている私や、仕事の場で社交辞令を言う私を見たら、美冬は驚く気がする。彼女が知っている私は、とてもじゃないけれどそんなことができる人間ではなかったから。
また、こんな想像もする。私がインタビュー記事を書いているのを知ったら、美冬はなんと言うだろう。「書くことを仕事にしてすごいね!」と言うだろうか。それとも、「そういうんじゃなくて、もっと文学的なものを書いてよ」と苦言を呈するだろうか。
たしかにあの頃夢見ていた仕事じゃないけど、でも、誰かの中にある知見や想いを聞き出して文章化するのも、とってもやりがいのある仕事なんだよ。
心の中でそんなふうに美冬に語りかけながら、私は今日も文字起こしをする。
文=吉玉サキ(@saki_yoshidama)