三ノ宮卯之助と力石
江戸時代後期、大袋地区の三野宮(越谷市西部)には、「日本一の力持ち」「怪力」と言われた卯之助という人がいました。
しかしこの卯之助、幼少期は身体が弱く、力もなく、近所の子供たちにいじめられては泣きべそをかいてばかりだったといいます。
当時の子供たちのあいだでは重たい石を持ち上げる力比べが流行っていましたが、他の子供たちが持ち上げることのできる石も、卯之助には重たくて持ち上がりません。
悔しさに涙を滲ませた卯之助は「力持ちになる」と決意。
体を鍛え、重たい石を持ち上げる練習を続けました。
時が流れ、1831(天保2)年、越谷市の久伊豆神社で力くらべの大会があり、大人になった卯之助も大会に出場することになりました。
そしてなんと、重さ187kgの大きな石を持ち上げ優勝してしまうのです。
長年の鍛錬と努力が実った瞬間でした。
そうして「力持ち」「怪力」と呼ばれるようになった卯之助は力持ちを見世物とする一座を作り、各地の神社で力石を持ち上げては、銘を刻んで奉納するようになったと言われています。
フィールドワーク①三ノ宮卯之助顕彰碑を探す
まずは東武スカイツリーライン越谷駅の東口から「三ノ宮卯之助顕彰碑」がある越谷市中央市民会館を目指します。
市役所前中央通りを元荒川方面に歩くと越谷市中央市民会館が見えてきました。
こちらが三ノ宮卯之助顕彰碑です。
毎年越谷市で「三ノ宮卯之助に挑戦 越谷力持ち大会」を開催してきた団体の創立60年記念として建てられたものだそう。
顕彰碑には、卯之助が1807(文化4)年に生まれていることや、18歳の時から力くらべに参加していたこと、江戸深川八幡宮境内にて江戸幕府11代将軍・徳川家斉の上覧のもとで力石を持ち上げたことなど、彼の華々しい経歴が記されていました。
そして碑の左下には当時の力くらべの番付があり、卯之助が1848(嘉永元)年の6月に最高位である大関に輝き「日本一の力持ち」と呼ばれるようになったこともわかりました。
フィールドワーク②卯之助が持ち上げた久伊豆神社の力石
次は元荒川に沿って歩き、卯之助が持ち上げたとされる重さ187kgの力石がある久伊豆神社を目指していきます。
こちらが越谷市にある久伊豆神社です。ここからは以前プライベートで訪れた時に撮影した写真をもとにご紹介します。
久伊豆神社の歴史について「神社の創建年代は不詳」と説明には書かれていますが、社伝には平安末期の創建という記述もあるとのこと。
古くから武士の家に信仰され、徳川家からの信仰も厚かったようです。
奥に進んでいくと、水神を祭る池のそばには県指定天然記念物「久伊豆神社の藤」があります。
この藤の木の樹齢は200年ほど。1837(天保8)年に下総国(現在の千葉と茨城の南西部)の流山から当時樹齢50年のものを舟で運び、この地に植えたといわれています。
画像がなく写真でご紹介できないのが残念ですが、大変見事な迫力のある藤の木でした。
本殿横にある「三ノ宮卯之助銘の力石」の説明板を参道で発見。
三ノ宮卯之助銘の力石は、越谷市指定有形文化財に登録されていることもわかります。
本殿の横にひっそりと力石が佇んでいるのを見つけました。
この時はしめ縄がはられていたので近くに寄れず、卯之助の銘をしっかりと見ることは叶いませんでした。
でもとても重そうで、本当にひとりの成人男性がこれを持ち上げたのだと思うと改めてそのすごさに驚きます。
卯之助の銘入りの力石は全国に38個あり、関東地方のほか、山梨、長野、大阪など各地に存在しているそうです。
調査を終えて
全国に卯之助の銘入りの力石が点在していることで彼が実際に一座を率いて各地を巡っていたことがわかり、なぜか深く感動してしまいました。
卯之助について、最初は「歴史上の人」という印象しかなかったのに、彼の人生をなぞり、持ち上げた力石を見て、実際に全国を回っていたことが石に彫られた名前からわかることで、ひとりの人間としての確かな輪郭を感じられるようになったのです。
卯之助が生きた江戸時代と今のこの時代は、別のものではなく地続きなのだということ。
民話や伝説を調べることを通して、過去に生きた誰かの人生と繋がることができる、今回はそんな貴重な体験となりました。
取材・文・撮影=望月柚花