焼き餃子、辛子明太子、ガタタン……「引揚者料理」たち
有名なのは、なんといっても焼き餃子ですよね。中国東北部の由来の食べ物ながら、あちらでは焼くにしても茹でてかららしいですが、我々は生のまま焼きます。発祥地は諸説あって、宇都宮説が有力ですよね。日本陸軍の第14師団がこの地におかれ、旧満州へ送られたあと終戦、その復員兵たちが街で焼き出したことに端を発すると言われています。
いや、横浜が初めじゃないの? いやいや博多でしょう、たぶん神戸かもしれないよ?なんて声も聞こえそうですが、どこを最初にするかこだわるよりも、いずれの土地も、海を超えて戻ってきた人々と深く関連する場所であることに注目すれば十分かなと思います。
辛子明太子もまさにそういった土地で生まれています。戦中、朝鮮半島・釜山にいた「引揚者」が戦後に開発したのですが、スケソウダラの卵を唐辛子で漬けた現地料理からインスピレーションを得たといいます。開発地は、福岡・中洲の引揚者住宅。博多港は引揚港でした。大陸や朝鮮半島から帰ってきた引揚者が、大勢上陸した地であり、集住した場所でもあったのです。
こうした引揚者の集住地が、かつてはあちこちにありました。海の向こうで培った生活基盤や縁を断ち切られ、ほとんど着の身着のままで帰国した人々は、同じ境遇の者どうし、肩を寄せ合うことでなんとか暮らしていきました。住まいとしてだけでなく、「引揚者マーケット」などと言って、みんなで商店を構えて糊口をしのぐこともありました。辛子明太子の開発地はその一つですね。ほとんど同じルーツを持つ一角として、最大規模にして著名なのは、アメ横です。
「引揚者料理」は、それほど有名でないものもあちこちに残っています。
たとえば「ゴム焼きそば」なんて、名前からもうインパクト十分の焼きそばが京都・福知山で昔から食べられています。ここ最近になって、褐色の麺をこう呼ぶようになったようですが、由来はやはり引揚者らしいです。食感はゴムのようなのか、いずれ食べて確かめてみたいと思っています。
ガタタンなどという不思議な名前の料理もあまり知られていません。北海道・芦別だけで今も食べられている料理で、中国語の疙瘩湯(グーダタン)が、日本に来て「含多湯」になったとも。塩味の汁の上に、炒めた肉野菜や魚介、山菜を、とろみをつけてかけ、卵でとじて仕上げた汁麺です。と、こう書いていてもうまそうで、一度すすってみたい気持ちがこみあげます。芦別は炭鉱の街でしたから、旧満州の寒さを超えるためだった熱々のあんかけ汁は、凍える炭鉱夫たちの身体もあたためたでしょう。
食べたことがあって、パッとすぐ思いつくものをあげるなら、たとえば岩手・盛岡の「じゃじゃ麺」。白いもちもちの平打ち麺に刻みきゅうりと肉味噌がのっかった一品で、味噌を溶かし、ニンニクやお酢、ラー油をまぜあわせて一気にすすります。後半、少し具を残しておいて生卵を落とし、麺の茹で汁をそそいで飲み干して、フィニッシュです。
神奈川・平塚には、不思議なタンメンがあります。素麺のような細麺、澄んだスープ、そこに投入された、大量のワカメ。上から特製ラー油をたらしてすすると、びっくり。「酸っぱ辛い」んです。旧満州で憲兵隊にいた方が戦後考案した食べ方で、平塚には数店、他所にないこんなタンメン店があります。
そうだ、長野・伊那の「ローメン」もありましたね。蒸し麺をキャベツと羊肉で炒め合わせた、シンプルな焼きそばで、汁アリタイプと汁ナシタイプとがありました。羊は中国大陸では一般的な肉ですね。味は薄め。ここにウスターソースだのお酢だのをたーっと回しかけて食べます。
どちらも正直、ジャンクフード慣れした現代人の私の舌からすると、派手さのない素朴な料理でしたが、どこか野趣があって、私はその力強さに惹かれました。
各地で作り伝えられた引揚者料理
さあもう一度、これらが食べ継がれてきている土地を見てみましょうか。
じゃじゃ麺発祥の店は桜山神社参道にあります。ここに門前町のように小さな飲食店が櫛の歯のように並んでいます。そう、前述通りここに引揚者たちが入居したマーケットがあったのです。終戦直後、たくさんの人を受け入れられる空間として、寺社境内にマーケットが形成された例は各地にあります。
伊那は、満蒙開拓団を多数送り出した地。この団体は、旧満州の広大な土地へ人々を入植させるため国策で設けられたものです。昭和恐慌後、疲弊する農村にあって土地をもたない農家の次男、三男など、生活をなんとか上向けたい人々が海を渡りました。開拓だけでなく国境線を守る尖兵の意味合いも期待されていました。ちなみに、誰もが自由意志で海を超えたわけではないんです。地区ごとに送り出す人数のノルマがあって、説得されて大陸へ渡った方々もいました。
終戦間際、この人達を守るべき軍隊はほとんど消えていました。我先に逃げ出していたのです。置き去りにされ、棄民となった人々は、ソ連軍の侵入と激しい暴力を一身に受けることになりました。それに、あてがわれ、精魂込めて耕し続けた開拓地は、もとは地元の農民のものです。復讐心に燃える彼らからも激しい襲撃を受けました。その地獄の有様は、このコラムのスペースには到底入れられません。約27万人の開拓団のうち約8万人が、ふたたび日本の土を踏むことができなかったのです。
いま、各地で食べられている引揚者料理は、地獄の逃避行のはてに、辛くも帰ってこられた人々が作り伝えたものです。料理のレシピ以外に、そのあたりのことは、どれほど伝わっているでしょうか。昭和のおわりごろまではあちこちに残っていたマーケットの名残も、いまや街からはほとんど痕跡を消しました。
赤塚不二夫、大鵬、宝田明……終戦後、本土へ引揚げてきた者たち
今一度、冒頭の有名人の名を上げてみます。赤塚不二夫。彼は奉天から引き揚げるとき妹二人をなくし、弟とは生き別れています。横綱大鵬。樺太からの引揚船が下船直後に潜水艦に沈められ九死に一生を得たものの極貧の幼少期を過ごしています。宝田明。ソ連兵による強姦を目撃し、自身も腹をマシンガンで撃たれています。浅丘ルリ子。引揚げ後、一家で暮らした借家は近年まで神田に残っていまして、私は実際に見たことがありますが、飲み屋長屋の一角のその部屋は、あまりにも小さなものでした。板東英二。一家で帰国して、徳島の引揚者住宅に入り極貧生活を送りますが、元は第一次大戦時に使われたドイツ兵用の捕虜収容所でした。彼が茹で卵を好きなのは、引揚げ時に卵で命をつないだからだそうです。
有名人をざっとあげても引揚者がどんな境遇にあったかの一端がわかるかと思います。おそらく多くの引揚者が、言うに言われぬ似た体験を持っていたと思われます。大陸の地平線を思いながらアレンジレシピに昇華させた郷愁の念。表裏一体で、語れぬ思いや歴史があったはずなのです。
いまは、たんに風味付け、由緒付けのために満州伝来、引揚者が云々、などとごくさらりと、消極的に記述するだけのケースもすくなくないでしょう。長い時間が経っていますから、仕方がないかもしれません。
他方、古くからの中華屋さんを「町中華」と名付けて、ノスタルジー的視点でもって積極的に再発見・再評価していく試みは活発です。新しい需要を呼び込むこの動きは成功していると思いますが、ここにひとつ加えてほしいのです。たった数十年前の、われわれの先輩たちの歴史の表裏も、すこし想像してみてはどうかな、と。
そうしたら――きわめて平和な街角の、古びた中華屋さんの片隅で、のんびり瓶ビールでも傾けながら噛みしめる引揚者料理のひと味に、きっとこれまでとは違った力強さが宿ってくる――そんなふうに私は思うのです。
文・写真=フリート横田