新橋の町なかに残る異空間への入り口
西新橋1丁目は虎ノ門駅と新橋駅を結ぶ外堀通りに面した一角。外堀通り沿いには大きなオフィスビルが並び、そこから一筋裏通りへと入っていくと、すこし背が低い事務所ビルが立ち並ぶ地域となる。
『フォーク喫茶 香林坊』があるのはそんな町並みの中。事務所ビルの列の中に忽然と現れる昭和の一軒家。扉を開けて中に入れば、ここから異空間へ通じているような印象さえ受ける佇まいだ。
昭和のちょっとミステリアスな雰囲気が濃厚に漂うお店に足を踏み入れると、全体がセピア色に染まった細長い空間が奥に伸びている。
「だいたい常連さん以外の人は、お店の前に立ち止まっても、9割は入ってこないね。ご夫婦で立ち止まって旦那さんが興味深そうに中をのぞいている横で、奥さんがここじゃなく早く先に行こう! といった様子でソッポを向いているような風景もよく見るね」と笑うのは、このお店を長年にわたり1人で営まれているご主人の小笠行夫さん。
一番奥に調理場。両側は木目の壁。椅子もソファもテーブルも天井も全て茶色。そこにやわらかな照明が当たっている。壁際の小さなテーブルにはフォーク世代の方々にはおなじみのピンクのダイヤル電話。そして調理場の手前にはDENONのレコードプレーヤー。
入り口のガラス窓や両側の壁には、アルバムジャケットが貼られている。松山千春、吉田拓郎、荒井由実、中島みゆき、それに杏里……。
この店の雰囲気、壁に張られたジャケット。ご主人と音楽の話をしたがるお客さんも多いのではないですか? との質問に「ただお店で自分が好きな音楽を聴いているだけで、全然詳しくないんですよ。だからお客さんにもそう言っています」と小笠さん。
「暑いときには吉田拓郎の“夏休み”、雨の日にはユーミンの“雨の街を”とか、そんな感じでレコード選んでる」とのこと。もちろんお客さんからのリクエストにも気軽に応えている。
丁寧に、丁寧に落とす一杯のコーヒー
さて、この日の注文は人気メニューのブレンドコーヒーにアメリカンサンド。「これからお湯を落としますよ」というご主人の声にその姿を見に行くと、そこには初めて目にする光景があった。
ポットの上に置かれたコーヒーフィルター。そこにお湯を注ぐご主人。しかし全く異なるのはそのお湯を注ぐ量。まるで粉の上に雫をたらしていくように、少しずつ、本当に少しずつ、まるでコーヒー豆を湿らすようにお湯を注いでいく(注ぐという表現も似合わないほどに)。
「豆を蒸らすための最初の儀式かな……?」とも思ったのだが、拝見しているとその作業はいつまでも続く。同じ姿勢でほんの少しずつお湯をたらすこと約10分。ポットに溜まったコーヒーを火にかけて温めなおし、ようやくブレンドコーヒー一人前が完成する。
「よく豆を蒸らした後でフィルターにお湯を一気に注ぐやり方を見ますが、あれだと豆からうまく味が出ないんだよね。こうやって少しずつお湯を入れることで豆からおいしい味が全部出るんです」と小笠さん。
何人前であろうと落とし方は一緒。つまり3人のお客さんがブレンドコーヒーを頼むと「30分くらいかかってしまうから、その間、ゆっくりと音楽を聴いていてください、と申し上げています」とのこと。
こうして供されたブレンドコーヒー。まず驚くのはその香り。カップがテーブルに置かれた瞬間から芳醇な香りが立ちのぼる。一口いただくと、深くてふくよかな味と共にやさしい苦味が口中に拡がっていく。「うわー、濃い」。エスプレッソのような濃縮された濃さでなく、丸くて太い味わいというのだろうか。「おいしいです」と心からの感想が口から出る。
そしてもう1つの人気メニュー、アメリカンサンド。トーストに挟まっているのはベーコン、レタス、そしてトマト。つまり黄金の具材トリオBLTだ。期待通りのおいしさ。しかもパンの量は3枚分。ランチにいただいてもちょうどお腹を満たしてくれる分量もうれしい。
「うちはトースターが1つしかないから、2つ同時に注文があったときは出来たてを半分ずつ2回に分けて出すようにしています」と小笠さん。こんな1人作業のゆったりした時間配分が、このお店独特の時間の流れを自然に作っているように思える。
音楽、そしてご主人のペースと共にゆっくりと過ごす空間
『フォーク喫茶 香林坊』が開店したのは1978年(昭和53)のこと。9年間会社勤めをしていた小笠さんが30才の時、実家であったこの場所でお店を始めた。「もともとここは父が雑貨屋さんをやっていた場所でね。ずっとこの場所で育ちました。その頃この辺はビルなんかなくて民家ばかり。喫茶店も結構いっぱいありましたよ」。
『香林坊』という店名は、偶然新聞で見かけた金沢の地名の響きが気に入ったから。2023年に45周年を迎えた。ニューミュージックが流行した時期には、お客さんの9割が女性という時期もあったそう。
最近は常連さんがほとんど。フォーク全盛だったころに通ってくれていたお客さんが定年を迎えたこともあって、昔ほど混むこともなくなったとのこと。「私1人でやってるし、コーヒーを落とすのも時間がかかるので、お客さんの数は今ぐらいでちょうどいいね」と小笠さんは笑顔で目を細める。
時間を忘れる空間という表現があるけれど、流れる音楽と、ご主人のペースと共に過ごすこのお店の時間がまさにそうなのだろう。街が急激に姿を変えていく中で、昭和の香りを濃厚に残し、独特なペースで時間が流れるこのお店は貴重な存在だ。『香林坊』フォーエバー。
構成=アート・サプライ 取材・文・撮影=夏井誠