『中野サンプラザ 断面透視図』(1973年)
設計段階で日建設計が用意した完成予想図。東側から見た内部で、イメージがしやすいよう各階には人が生き生きと、地下のプールには波までも細かく描き込まれている。オーディトリアム(ホール)の右上にある薄暗い傾斜の空間は、幕などの吊り物を収めるフライタワー。制作者はパース部(当時)の森芳信さん。現在のフロア構成とは一部異なる。
データ提供=日建設計
お話を伺ったのは……大谷弘明さん(日建建設 CDO常務執行役員)
それは、前例のない大規模複合建築だった
正面から見れば普通の高層ビル、横に回れば直角大三角形。『中野サンプラザ』は、その特異な姿で1973年6月1日に開業した。当初の名称は「全国勤労青少年会館」(愛称はサンプラザ)。労働省が計画し、雇用促進事業団の運営でスタートした公共的総合福祉施設で、その目的は、地方から来た勤労青少年の健やかな成長と福祉の推進だった。
「全国勤労青少年会館」としての歩み
設計に挑んだのは、東京タワーをはじめ名立たる建物を担った日建設計。12名の設計者を軸に大勢のメンバーが関わったプロジェクトは、東西約60m×南北約160mの限られた敷地に盛り込みたい要素がとにかく多く、オーディトリアム棟、ホテル棟、事務所・スポーツ施設棟の3棟をどう配置するかが課題だった。棟を分ければ広場ができず、各施設へのアクセスも複雑。1つの団体の機能であれば皆が1つの玄関から入れるようにしたい。「ホールも宴会場も客室も四角いビルに一緒に入れるのは難しいんです。大きな部屋に合わせると小さな部屋の階は奥行きが余ってしまうから。そこで、奥行きを徐々に減らして積み重ねるのが一番自然な形態になるのではと設計者たちは気づいた。だから正面を揃えて背面を斜めにしたのでしょう」と、諸先輩の仕事に思いを巡らすのは日建設計のCDO常務執行役員・大谷弘明さん。この形は、人口密度の高い施設ほど下に配置するという防災避難計画にも沿い、広場の確保や北側の宅地の日当たりも配慮できた。
「でも、この形態に最も影響したのは建物の用途だと想像します。親元を離れた不安の中、大都会に放り込まれた勤労青少年たちをどうしたら勇気づけられるか。サン(太陽)が表すように、明るく前向きに、明日はさらによくなるぞと思ってほしい。だから行き先に迷って嫌な気分にさせないよう、入り口からスムーズな動線を重視した。それには積み重ね型しかなかったはずです」
こうして生まれた地上21階、地下2階の建物だが、前例がないあまり、「こんな巨大建築を住宅地に建てるとは」と建築界で論争も起きたという。
名建築は“51対49”。その割合は50年で変わった
2004年12月には民営化され、『中野サンプラザ』として再出発。目的は違えど、ホールに飲食店、ホテル、宴会場、研修室にカルチャースクール、結婚式場、ボウリング場、スポーツジム、プールにテニスコートに音楽スタジオとギュッと集まり、万人に開かれた複合施設の殿堂となった。だが、駅前の再整備と建物の老朽化を理由に2023年7月2日、閉館を予定する。
「本当の名建築は“51対49”とよく言われます。これは完成当初の賛成と反対の割合。今、取り壊しを惜しむ声が大きいのは49が小さくなったわけです。この50年で東京は膨張し、ビルがどかどか建って、『中野サンプラザ』が巨大とは言えなくなりました。東京の発展の歴史のひとつになった『中野サンプラザ』は、建物こそ消えることになりますが、全部なくなるとは思わない。人々の記憶の中に永遠に残る、と言ったらかっこよすぎますかね」
カウントダウンは始まったが、まだあと8カ月ある。眺めて、訪ねて、利用して、思い思いにこの大三角形の勇姿を心に刻みたい。
記念ガチャ販売中!
2022年8月より開業50周年オリジナルグッズを販売。建物を再現した立体けしごむ(写真)などが出る記念ガチャは1階で購入可(10~18時)。300円。12月からは第2弾が登場予定。
取材・文=下里康子 撮影=加藤昌人 昔の画像提供=中野サンプラザ
『散歩の達人』2022年11月号より