変化を認めればよいわけではない
筆者 : 数年前に広辞苑が「ら抜き言葉」を採用して、話題になったことを覚えています。「見られる」→「見れる」、「来られる」→「来れる」といった「ら」を省略する表現です。
小野先生 : この連載で何度もみてきたとおり、ことばは変化するものです。「ら抜き言葉」を「正しい日本語ではないから、許さない」というのは、現代においては適切な態度とは思えません。日常的な話し言葉の用法としては、かなり定着したとみるほうがよいでしょう。
しかし、より規範が重視される書きことば(文章)では、必ずしもそうとは言えません。
テレビの街頭インタビューなどで、話している人は「見れます」と「ら抜き言葉」を使っていても、テロップでは「見られます」と修正されています。
私も学生が話す「ら抜き言葉」には違和感もありませんが、レポートなどの文章で出してきたときには指摘します。
筆者 : だいぶ定着はしているけれど、全面的に認められているわけではないと。
小野先生 : 言語学者の中には、言葉が変わるのは良し悪しではなく、ただの変化であり、変化はむしろ好ましいものだという人もいます。
しかし、私はそこまでは考えません。変化を認めるスタンスとともに、ブレーキをかけることも大切です。
ことばの習得とは、10円ずつ貯金していくようなものです。少しずつ覚えたことばが、野放図に変わっていってしまったら、コミュニケーションは崩壊してしまいます。
「ら抜き言葉」は紛らわしい表現を明確にする役割も
小野先生 : そうは言っても、「ら抜き言葉」はよくできた表現なんです。
例えば「来られる」ということば、2つの意味に受け取ることができますよね。
「何時に来られますか?」と尋ねられたとき、「来ることができる」という「可能」の意味と、「いらっしゃる」という「尊敬」の意味です。
筆者 : 何となく、両方の意味が混ざっていることもあって、便利でもあり、紛らわしくもある表現だと思います。
小野先生 : それが「何時に来れますか?」となると「可能」の意味しかなくなります。「ら抜き言葉」は「尊敬」の意味を切り捨て、「可能」の意味であることを明示することばなのです。
筆者 : 確かに便利!「見られる」などだと「可能」「尊敬」に加えて「 受け身」の意味も加わり、更に紛らわしい……。「ら」の1音を抜いて短縮するだけでなく、それ以外の実益もあって、「ら抜き言葉」をみんなが使うようになったのですね。
小野先生 : 音がすぐさま消え去っていく口語の世界では、聞いただけで意味が分かる「ら抜き言葉」は、とても便利なことばで、それこそが廃れない理由です。
しかし、文字ならば、文脈を振り返って確認できます。文章で「ら抜き言葉」が定着していないのはそのためです。
まとめ
辞書にも載るようになった「ら抜き言葉」。話し言葉としては定着したが、テレビのテロップでも修正される通り、改まった文章表現で一般的に使用されるまでには至っていない。言葉の変化をただ認めるだけでなく、一定のブレーキもかけなければ円滑にコミュニケーションはできない、というのが小野先生のスタンスだ。
一方、「来られる」のように「可能」と「尊敬」の両方が共存することばの意味を明確にする。ここまで市民権を得ているのは、単に短縮だけでない実用的なメリットがあったからなのだ。
取材・文=小越建典(ソルバ!)