西側の住居棟をじっくりと観察する。建築年代の違いにより建物にも差異がある
端島炭鉱の出炭量最盛期は1940年代。戦中までの人口は3000人台でしたが、戦後は一番のピークで1959年に人口5259人を記録しました。約500mの島にそれだけの人口が住むので、東京都の人口密度の約9倍を誇ったといいます。手を広げたらすぐお隣さんみたいな状況だったのでしょう。ガイドさんの話によると、デートは高層アパートの屋上だったそうで、プライベートの環境作りも一苦労あったのではと窺えます。そんな人口密度をカバーするため、島には上へ上へと高層階の鉄筋建築が林立していきました。
船は軍艦島の西側を見せていきます。67号棟、66号棟、……59号棟と、1950年代築の鉱員社宅を観察。戦後の建設だからか、若干外観が崩れているけれども、しっかりと形が残っています。
隣は大正時代に建設された16号棟。鉄筋の梁の数が多く、これがコンクリート建築黎明期の姿なのかと納得しました。軍艦島は西側に住居棟が固まっていて、所狭しと様々な形状の鉄筋コンクリート(以下、RC造)建築物が立ちます。一見して四角い建物に見えるが、築年代の違いによって梁の数も異なり、窓の大きさや数も差異があってなかなか面白いです。
それぞれの棟には鉱員、職員、幹部の住宅があり、地下などには商店街や遊興施設がありました。僅かな土地をうまく活用して、生活に必要な施設から娯楽施設まで完備していたのですね。5千人もの人がこの狭い空間で生活していたのだから、建物の役割も工夫されていたのです。



そして船は南西方向へ回り、前回の記事でも紹介した1916年築、日本初のRC造7階建て高層アパート30号棟が見えてきました。他の建物と比べて一際崩れています。壁面が欠け、基礎の骨組みが露出し、少々痛々しい姿です。


30号棟に限らず、軍艦島の建物群は常にうねる波と風雨に晒され、夏場は台風の猛威に飲まれます。30号棟は2020年3月、5階から屋上の梁、外壁、床が一部崩落しました。塩害と風雨、それに台風と、廃墟となった建物は急速に劣化していきます。
世界文化遺産の一部として保存されている建物はどうやって保全しているのかというと、景観を変えずに補強を続けています。しかし、鉄筋が腐食しやすい環境下でのRC造建築物の保全は困難が伴い、コンクリート表面に特殊塗料を塗り、内部に錆止めを注入するなど試行錯誤を繰り返しながら、長崎市から委託された日本コンクリート工学会が調査研究をしています。(2016年5月8日付、長崎新聞による)
桟橋から上陸叶う。第一見学広場で早くも圧倒される光景が……
軍艦島の西側をじっくりと観察し、いよいよ上陸へと向かいます。上陸地点は南東側に設置されたドルフィン桟橋と呼ぶ場所。貯炭場と積み込み用桟橋のあったすぐ隣に設置された、観光上陸用の桟橋です。
ついに上陸だ。とはやる気持ちを抑えて順番に船を出ます。浮き足立っていると足元が疎かになり、船に架かる渡板から物を落下させかねません。凪状態とはいえ、渡板は波で前後するからです。ガイドさんも「先日、スマホを海中に落とした人もいるので、撮影しながらの上陸はやめてください」。撮りたい気持ちを抑え、撮影せずに足元に注意して上陸しましょう。
崩れかけた護岸の分厚いコンクリートに、外海の波の強さを感じながら、第一見学場と呼ばれる広場に到着します。ここでガイドさんの説明に耳を傾けるのですが、周囲の圧倒的な廃墟群に魅せられて、目を丸くします。
この場所は貯炭場と周辺機器室、選炭機といった設備のあった場所です。目の前は石垣が聳(そび)える切り立った崖で、幹部用職員住宅の3号棟が崖上に建っています。崖は端島のコア部分で、明治初期は海に面していました。我々が立つ第一見学場はもともと海でしたが、1897年の埋立拡張によって誕生した陸地となります。
あ、崖にトンネルが埋められていますね。ついつい私は坑内トロッコの跡か!と思ってしまいましたが、これは採炭された際の捨石残土「ボタ」を海中投棄するためのベルトコンベアーのトンネルだったとのこと。ベルトコンベアーは西側の31号棟を貫いていて、住居棟の中にボタを捨てる道が通っていたのです。石炭が生活の中心にあった軍艦島らしい光景ですね。

さぁ、次回は見学通路を歩きながら第二、第三見学広場をじっくりと観察していきます。
<第1見学広場点描>
取材・文・撮影=吉永陽一