軍艦島。過去には上陸チャンスがあったけれども行くことはなく“憧れの場所”に行きたい行きたいと、ずっと想いを馳せていた島。この度、やっとのことで軍艦島へ上陸しました。廃墟好きではなくとも、その名を聞いたことがある人は多いことでしょう。インパクトある名は通称で、島名は端島(はしま)といいます。南北480m、東西160m、周囲1200mという小さな島は、良質な石炭が採掘される海底炭鉱がありました。
西側の住居棟をじっくりと観察する。建築年代の違いにより建物にも差異がある
軍艦島から海底へ伸びた坑道は三ツ瀬の海底奥深くまで掘り進められた。船上から見える岩礁が三ツ瀬だ。
端島炭鉱の出炭量最盛期は1940年代。戦中までの人口は3000人台でしたが、戦後は一番のピークで1959年に人口5259人を記録しました。約500mの島にそれだけの人口が住むので、東京都の人口密度の約9倍を誇ったといいます。手を広げたらすぐお隣さんみたいな状況だったのでしょう。ガイドさんの話によると、デートは高層アパートの屋上だったそうで、プライベートの環境作りも一苦労あったのではと窺えます。そんな人口密度をカバーするため、島には上へ上へと高層階の鉄筋建築が林立していきました。
北東側の護岸部分。この辺りは1901年に埋立拡張された。ツアーではないのに何故か島にいる釣り人は成人男性なので、護岸のコンクリートの高さがおおよそ分かる。
船は軍艦島の西側を見せていきます。67号棟、66号棟、……59号棟と、1950年代築の鉱員社宅を観察。戦後の建設だからか、若干外観が崩れているけれども、しっかりと形が残っています。
隣は大正時代に建設された16号棟。鉄筋の梁の数が多く、これがコンクリート建築黎明期の姿なのかと納得しました。軍艦島は西側に住居棟が固まっていて、所狭しと様々な形状の鉄筋コンクリート(以下、RC造)建築物が立ちます。一見して四角い建物に見えるが、築年代の違いによって梁の数も異なり、窓の大きさや数も差異があってなかなか面白いです。
それぞれの棟には鉱員、職員、幹部の住宅があり、地下などには商店街や遊興施設がありました。僅かな土地をうまく活用して、生活に必要な施設から娯楽施設まで完備していたのですね。5千人もの人がこの狭い空間で生活していたのだから、建物の役割も工夫されていたのです。
60号棟は1953年築RC造5階建て鉱員社宅兼地下購買会。61号棟は1953年築RC造5階建て鉱員社宅兼共同浴場。65号棟は1945、1949、1958年築の3パート構成で、RC造9~10階建て鉱員社宅と端島保育園。66号棟は1940年築RC造4階建て鉱員合宿所「啓明寮」。
16号棟は1918年築RC造9階建て鉱員社宅で、その上にある社(やしろ)は端島神社。56号棟は1939年築RC造3階建て職員社宅。57号棟は1939年築RC造4階建て職員社宅兼商店。この二棟は端島の山に建築されたから高く見える。59号棟はRC造5階建て鉱員社宅兼地下購買会。
左から61号棟、60号棟、59号棟。階段部分が特徴的な造りだ。右奥は16号棟で、鉄筋の間隔が狭い。護岸の四角い穴は雨水などの水抜き用。
3号棟は1959年築RC造4階建て幹部用風呂付職員社宅。14号棟は1941年築RC造5階建て職員社宅。20号棟は1922年築RC造7階建て鉱員社宅。48号棟は1955年築RC造5階建て鉱員社宅兼地下パチンコ店など。51号棟は1961年築RC造8階建て鉱員社宅。
建物は上写真と同じである。3号棟が異様に高いのは山頂に立つからだ。
51号棟のクローズアップ。船上から望遠レンズで捉えられた。この棟は海に面し、部屋から大海原が望めたのだろう。
こちらは48号棟を手前にして14、20、3号棟と続く。山の斜面を利用して段々状態にRC造アパートが立つっている。
そして船は南西方向へ回り、前回の記事でも紹介した1916年築、日本初のRC造7階建て高層アパート30号棟が見えてきました。他の建物と比べて一際崩れています。壁面が欠け、基礎の骨組みが露出し、少々痛々しい姿です。
25号棟は1931年築RC造5階建て職員社宅兼宿泊所。30号棟は1916年築RC造7階建て鉱員住宅で、日本初のRC造高層アパート。近年の台風被害により損傷が激しくなってしまった。31号棟は1957年築RC造6階建て鉱員社宅兼郵便局と地下共同浴場。
13号棟は1967年築RC造4階建て教職員用町営住宅。21号棟は1954年築RC造5階建て鉱員社宅兼警察派出所。22号棟は1953年築RC造5階建て町営住宅、役場、カモメ荘、老人クラブ。39号棟は1964年築RC造3階建て公民館。50号は映画館跡。その後ろには泉福寺があった。
30号棟に限らず、軍艦島の建物群は常にうねる波と風雨に晒され、夏場は台風の猛威に飲まれます。30号棟は2020年3月、5階から屋上の梁、外壁、床が一部崩落しました。塩害と風雨、それに台風と、廃墟となった建物は急速に劣化していきます。
世界文化遺産の一部として保存されている建物はどうやって保全しているのかというと、景観を変えずに補強を続けています。しかし、鉄筋が腐食しやすい環境下でのRC造建築物の保全は困難が伴い、コンクリート表面に特殊塗料を塗り、内部に錆止めを注入するなど試行錯誤を繰り返しながら、長崎市から委託された日本コンクリート工学会が調査研究をしています。(2016年5月8日付、長崎新聞による)
30号棟の先は南端部。プールがあり、このあたりは見学コースが整備されている。
西側の住居棟を望遠レンズで圧縮すると、様々な形状のRC造アパートがギュッと凝縮して写る。建築年代が異なる建物群が林立する姿は壮観である。高い城壁のような護岸に囲まれて、城郭都市の廃墟にも見えてくる。
桟橋から上陸叶う。第一見学広場で早くも圧倒される光景が……
軍艦島の西側をじっくりと観察し、いよいよ上陸へと向かいます。上陸地点は南東側に設置されたドルフィン桟橋と呼ぶ場所。貯炭場と積み込み用桟橋のあったすぐ隣に設置された、観光上陸用の桟橋です。
7階建ての端島小中学校。1~4階までが小学校、5と7階が中学校、6階は図書室などがあった。7階部分は崩れてしまい、鉄骨がひしゃげている。台風なのか、大きな力が加わったようだ。
北東から見る。右が学校。選炭、貯炭場施設の廃墟群が続いている。切り立った崖が元々の端島の崖。かなり埋立拡張したのが分かる。左端に写る船のところに観光上陸用ドルフィン桟橋がある。
ついに上陸だ。とはやる気持ちを抑えて順番に船を出ます。浮き足立っていると足元が疎かになり、船に架かる渡板から物を落下させかねません。凪状態とはいえ、渡板は波で前後するからです。ガイドさんも「先日、スマホを海中に落とした人もいるので、撮影しながらの上陸はやめてください」。撮りたい気持ちを抑え、撮影せずに足元に注意して上陸しましょう。
崩れかけた護岸の分厚いコンクリートに、外海の波の強さを感じながら、第一見学場と呼ばれる広場に到着します。ここでガイドさんの説明に耳を傾けるのですが、周囲の圧倒的な廃墟群に魅せられて、目を丸くします。
上陸した! 感無量である。第1見学広場に移動すると北側には貯炭場施設の遺構がゴロゴロ。背後が学校だ。橋脚みたいなものは貯炭ベルトコンベヤー支柱。ここから石炭運搬船に石炭を積み込んでいた。
見学広場の背後、南側は選炭機があった。
この場所は貯炭場と周辺機器室、選炭機といった設備のあった場所です。目の前は石垣が聳(そび)える切り立った崖で、幹部用職員住宅の3号棟が崖上に建っています。崖は端島のコア部分で、明治初期は海に面していました。我々が立つ第一見学場はもともと海でしたが、1897年の埋立拡張によって誕生した陸地となります。
北側。手前のコンクリート遺構は「炭車修理工場」。その奥は「浮選機室」で、石炭を選別するときに使用する設備の機械室かと思われる。崖上にそそり立つのは3号棟。
炭車修理工場跡の左手で口をふさぐトンネル。トロッコ用ではなく「ボタ」を反対側へ海中投棄するベルトコンベヤーの道である。
あ、崖にトンネルが埋められていますね。ついつい私は坑内トロッコの跡か!と思ってしまいましたが、これは採炭された際の捨石残土「ボタ」を海中投棄するためのベルトコンベアーのトンネルだったとのこと。ベルトコンベアーは西側の31号棟を貫いていて、住居棟の中にボタを捨てる道が通っていたのです。石炭が生活の中心にあった軍艦島らしい光景ですね。
上写真のトンネルの先はベルトコンベヤーが31号棟を貫いていた。建物に大きな開口部があるのがベルトコンベヤーの通った跡。周囲の部屋は相当うるさかったと思われる。ボタ(=残土)を海中投棄とは、1970年代までだからこそ許されたのだろうか。
さぁ、次回は見学通路を歩きながら第二、第三見学広場をじっくりと観察していきます。
<第1見学広場点描>
ドルフィン桟橋から遺構を潜るのだが、新設されたトンネルを潜って行くことになる。
選炭施設の一部かと思われる。背後は石垣で、明治初期の施工ではなかろうか。
手前は選炭施設。奥は「二坑口桟橋」。主力の第二竪坑へ入坑する設備があった。
自然の力で崩れた護岸。手前は荷役設備の土台かと思われる。
左手は「ブロアー機室」。写真中心部が貯炭場。背後が学校。