小野先生
小野正弘 先生
国語学者。明治大学文学部教授。「三省堂現代新国語辞典 第六版」の編集主幹。専門は、日本語の歴史(語彙・文字・意味)。

「旅」の意味は変わらないが人の意識は大きく異なる

小野先生 : 「旅(たび)」は奈良時代の「万葉集」から用いられていることば。日本古来の和語(中国から来た漢語に対し、日本に元々あったことば)で、語源は詳しくわかっていません。
「他日(たび)」=「ほかで過ごす日」という説はそれらしいですが、「他(た)」は音読み、「日(び)」は訓読みですから、あまり信憑性がありません。
あるいは、「ぐるりと巡る」という意味の「たむ(廻む)」の連用形「たみ」から、音が変化して「たび」になった可能性は考えられます。
基本的な意味は今も昔も変わらず「住んでいる場所を離れて、遠くの場所にいること」またはその場所まで「移動すること」です。とはいえ、旅に対する人の認識は、大きく変わってきました。
万葉集に聖徳太子(厩戸王)が詠んだ(と伝わる)歌が記されています。

「家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ 」

現代語訳:家にいれば、妻の手を枕にして横になっていたろうに、旅の途中で亡くなって(道端に)横たわっている、この旅人よ、ああ。

社会が不安定でインフラも整っていない時代、旅はときに命の危険も伴う苛酷な行ないでした。何か明確な目的がなければ、旅に出ることはなかったはずです。
行基や西行は諸国をめぐったことで有名ですが、それは修行や巡礼、布教などの理由があってのこと。純粋に風景などを楽しむ旅ではありません。

「旅行」は予定調和、「旅」は未知との出会い

筆者 : 旅の意識が変わったのは、江戸時代くらいでしょうか。街道や宿場が整って、「伊勢参り」など庶民が物見遊山に出かけられるようになった、と歴史の授業で習いました。

小野先生 : そうですね。人口が増え、社会が安定したことも大きいでしょう。例えば、商家の誰かが旅に出る場合、何日も仕事を休むことになりますが、それでも他の人が代わりをつとめて商売を回すわけです。

筆者 : 現代では、ほとんどの人が、楽しみのために旅に出るように思います。

小野先生 : 確かに、現代の「旅」に死や病気に直結するリスクを伴う感覚はないでしょう。しかし、「旅行」や「観光」とも、ことばのニュアンスが異なります。
「沖縄への旅行」というと、明確な目的地、スケジュールの中で楽しむイメージです。しかし「沖縄への旅」というと、何だかハプニングが起こりそうではありませんか? 未知の何かと出会い、知らなかった自分を知るような、予定調和にない体験ができそうです。

筆者 : 確かに「旅」には「旅行」にはない期待感やワクワク、人としての成長があるように思います。

小野先生 : そういう意味では、どんな出来事があるかわからず、延長線上には死のリスクさえある、という古代の感覚は、形を変えて残っているのかもしれません。

筆者 : だからこそ、旅はドラマチックでロマンチック、そして奥深い体験なのでしょう。考えてみると、歌には「旅」がよく登場しますが、あまり「旅行」とは言わないように思います。「心の旅」や「いい日旅立ち」「終わりなき旅」etc……。

小野先生 : 確かに。その一方で、旅への意識が変わったことで、ことばが影響を受けることも実感しています。
「可愛い子には旅をさせよ」とは元々、大事な存在だからこそ困難やハプニングも含め、さまざまな経験をさせなさい、という意味です。しかし、最近では単に、可愛いと思う子どもに楽しい経験をたくさんさせよう、という意味で使う人がいます。
この例は誤用ですが、時代によって、ことわざや慣用句の意味が置き換わっていくこともあるのです。

まとめ

古くは死を感じさせるほどの危険をともなった「旅」。江戸時代以降、庶民の楽しみとして定着しましたが、かつての意識はことばの中に残っているよう。

21世紀の今でも「旅」という響きには、予定調和の下に行われる「旅行」とは違った、想定以上のワクワクが感じられる。小さな未知との出合いに胸を高鳴らせれば、散歩も小さな「旅」になる。

取材・文=小越建典(ソルバ!)