大正時代からあったシベリア
『コテイベーカリー』があるのは横浜の桜木町。駅を出たら地上を歩いていくより、地下道の「のげちかみち」を使ったほうが便利。南1番出口を出れば、すぐそこにある。目の前の音楽通りを渡れば、飲み屋街が有名な野毛だ。
『コテイベーカリー』のシベリアは、ちょっと独特だ。まず、なにより分厚い。ずいぶんな重量級に思えるが、この羊羹がプリプリしていて軽めの味わい。甘さも適度でカステラもふわふわなので、おいしくペロッと食べられてしまうのだ。
そんなシベリアが名物の『コテイベーカリー』が創業したのは、大正5年(1916)のこと。初代の馬中冬太郎さんが、それまで勤めていた路面電車(市電)の仕事をやめ、隣町にあった「日本堂」で修業した後に、今の場所で開業した。
当時の店名は「日本堂」。大正当時の桜木町は、駅の海側に貨物の停車場や船のドックがあり、そこで働く人たちが買いに来たという。シベリアはその当時から作られていて、人気だった。
震災と戦争を乗り越えて
その後、関東大震災、太平洋戦争での空襲を受け、店は二度も消失してしまう。戦後、南方に従軍していた二代目の一郎さんが復員して、商売を再開する。しかし、窯もミキサーも焼けてしまったため、まずは喫茶店を始めた。このときに店名を「日本堂」から現在も使われている『コテイ』に変えた。すぐ近くの野毛で「日本堂」と名乗るパン屋ができたので、混同しないようにとのことだった。ちなみに店名の由来は、当時、流行していた香水の「COTY」から。客は学生など若者が多かったので、ハイカラなイメージを狙ったのだ。
横浜は当時、焼け残ったエリアが米軍に接収されていた。今でいうと大岡川の向こう、福富町から伊勢佐木町方面だ。日本人は立入禁止だったため、野毛や店のある花咲町に人が集まるようになった。桜木町駅の海側には戦前のように貨物の停車場やドックがあり、そこで働く人達が、商売の主な相手だったという。
やがて『コテイ』もパンを焼く機械を買い揃えると、喫茶店の店頭にケースを作ってパンを売り始めた。ベーカリーとして復活したのだ。現在の店主である俊夫さんは、大学生の頃、1970年ぐらいから店を手伝い始めた。シベリアは、その頃から分厚かったらしい。俊夫さんによると、2代目の一郎さんが自分が好きなものだから、どんどん厚くしていったのだとか。
港近くのこぢんまりした商業地区だった桜木町界隈が変わり始めたのは、横浜港に面したエリアがみなとみらい地区として、再開発が始まった1980年代からだった。駅の向こう側にさまざまな商業施設、ホテル、アミューズメントが作られ、人がどっと押し寄せるようになった。それに比して、駅のこちら側、花咲町や野毛町は沈んでしまう。別に沈んだわけではなくそれまでと変わりはなかったのだが、みなとみらい地区の華やかさに比べると、時代に取り残されてしまったかのようだった。
遊びに行く街として注目され
しかし、しばらくすると、野毛の持つ歴史、キッチュさが注目され、若者が訪れるようになった。街の人達も大道芸などのイベントを積極的に仕掛け、みなとみらいに負けない注目のエリアとなっていった。
さて、ここまで桜木町エリアの歴史は約100年。驚くべきことにシベリアは、地道に売れ続けてきた。かつては、手軽に食べられる甘いものとして。今は懐かしく、そして珍しいお菓子として。客層も、かつては働く人たちと地元の常連。現在は常連にプラス遊びに来る人たちが、好んで買ってくれるそうだ。
今では見かけることが少なくなったシベリアだが、その理由を俊夫さんは「手間」と「個数」の問題だと推測する。シベリアはカステラを焼き、羊羹を作り、それを重ねて作る。それぞれ、重ねる前に適正な温度になるまで冷まさなければならないので、けっこうな時間がかかるのだ。俊夫さんはシベリア作りを、毎日、夜の12時から始めるという。そうでなければ、朝9時の開店に間に合わないのだ。
また、シベリアは型に入れて作るため、作る個数が決まってくる。『コテイ』の場合は、型ひとつで48個分。最近のベーカリーは焼き立てを提供するため、多種を少量ずつ焼くことが多い。パンと違ってシベリアの場合、「ちょっと作ってみる」ができないため、やめてしまうケースが多いのだ。
現在、馬中俊夫さんといつ子さんには後継ぎがおらず、自分の代で店を閉めるつもりだという。それもあり、現在の経営方針は「1日でも多く店を開け、1つでも多くシベリアを作る」というもの。港街と一緒に、100年という歴史を歩んできたシベリアの味を、しっかりと味わっておきたいものだ。
取材・文・撮影=本橋隆司(東京ソバット団)