ネットに散らばる探訪記事と目を引く廃墟

20年弱前、藤沢に住んでいた。

当時、新地の奥に写植屋があって、チャリでフロッピーディスクを持っていったりしていた。新しいマンションだらけの現在の姿からは想像できないが、そのころは正直、おっかない雰囲気があった。風俗店、飲み屋が今よりずっと多く並び、そのネオンも大体が古びて妙に毒々しく、店の前には車を横付けして昼からたむろする人がいたりして、素早く通り過ぎるようにしていた。おじさんになった今では、惜しいことをしたと思うけれど……。

ネット上では今、この街の探訪記事がいくつも見つかる。ここは元・色街なのだ。東海道六番目の宿場・藤沢宿が置かれ、飯盛り宿など遊興の場は江戸期からにぎわい、明治以降も藤沢遊郭として妓楼の並んだ地が、新地一帯なのである。戦後は「赤線」となり、1958年の売春防止法完全施行までその性質は続いた。

当時の残り香を探し紹介しようと好事家たちが訪れ、タイル張りの円柱などが印象的な連れ込み旅館などの建築や、街の来歴についてブログに書いていたというわけ。色街独特の意匠は、もうほとんど残っていない。そんな中ひときわ目を引く廃墟が残っていた。

蔦(つた)の絡まるこの木造長屋群のことだ。ネットではこの長屋を娼家(しょうか) と見、色街一帯を「小鳥の街」としている記事も見かける。または、街灯に「朋友会」という文字が残るのを見て、その名で呼ぶ記事もあった。実は、どれも違う。

ここは丸善飲食街といった。朋友会は飲食組合の名前だろう。終戦後、駅付近に露店街、つまりヤミ市が生まれたが、その集団立ち退きでできたマーケット街なのだった。この名は建物所有者の名前から一文字取っている。高齢の建物所有者の親族に私は直接聞き取りをし「終戦後、市から請われて建てたのよ」との証言を得た。多くが戦災者だった露店商たちの救済と、都市整備の意味合いがあったと思われる。全12コマがあったが、八百屋やそば屋などもあり、娼家ではなかったと内部で働いていた別の古老からも聞いた。廃材を使い、柱は継いでる所もあるが、建築年はもうわからない。

小鳥の街も、あのあたりを指す呼称ではない?

その通り。小鳥の街とは、丸善飲食街よりさらに奥にあった飲食街だけを言ったと、長年そこで商売をしていた古老に直接聞いた。売春防止法より後に建てられ、路地を中央に引き込み、背中合わせに店を並べたモルタル造の建物が3棟、全24軒。じゅうしまつ、鶯、鷹、恋の鳥……など全軒鳥の名が付くのは、家主の趣味であったという。2階でコトを行うこともできない平屋。ホステスを幾人も使うママたちのバーが並ぶものの、ここも娼家ではなかった。ただし路地を挟んだ奥には何軒もの娼家があった。

……ということをくどくど書いたが、別にアラ探しをしたいんじゃない。一つひとつの食い違いなんて、本当はさほど重要じゃない。もっと危険なことがある。

小鳥の街はとっくに取り壊されマンションとなり、丸善飲食街も昨年、更地に。元・色街は今や静かな住宅地に変容している。加えて、戦後のこういう場所の公的記録は、実はほとんどないことが多い。そうなってくると俄然、ネット上の記事ばかりが目立つ。そして同じような後追い記事が続くと、それがいつの間にか「事実」に変身してはしまわないか。

土地の人の話を聞かず、見回るだけで書くのは、もったいないし危ない。今回、真相を書けたのは、単に地元のじいちゃんばあちゃんたちを訪ねて聞いただけ。記録はなくても、記憶はある人がまだ生きている。

取材・文・撮影=フリート横田
『散歩の達人』2021年8月号より