こだわりすぎないことがいつまでも変わらない懐かしい味わいの源に
「先代である僕の父がこの店を始めて、2021年で49年になるけど……当時からとんかつをメインにした定食屋さんは多かったかなぁ」と、振り返ってくれたのは『多津美』の2代目ご主人である森寛明さん。
とんかつ激戦区としてにわかに注目を集める蒲田の街でとんかつ定食と鍋料理の店とて人気を集めた店だけに、お店やメニューに対して強いこだわりやポリシーがあるかと思い話を伺うと、帰ってきたのは意外な言葉だった。
「そういうのは敢えて持たないようにしているんですよ。こだわるとしたら、トコトン突き詰めていくだろうけど、そこまではしていないし、お店のポリシーというのもこれといったものはない。しいて言えば、『先代の味を守る』ってことくらいかな」
JR蒲田駅から歩いて2分程度という駅チカという好立地に加え、どこか懐かしい雰囲気の漂う明るい店内ということもあり、お店には連日お客さんが詰めかける。そのほとんどが地元の常連客だという。
「常連さんも来てくれるけど、前に蒲田で働いていたある常連さんが引っ越した後に久しぶりに蒲田に来たということで、うちに来てくれたという人もいましたよ。昔からやっていたから来てくれたのかな」
いつまでも変わらない味がそこにある――『多津美』がとんかつ激戦区・蒲田に根付いている何よりの証拠と言えるだろう。
旅先で出会った阿寒ポークに一目ぼれ
『多津美』で提供されているメニューを見ると、定番のロースかつ定食、ヒレかつ定食に加え、チキンカツやメンチカツといったアラカルト、そしてかつ丼やかつカレーなどカツを生かしたメニューも多数並ぶ。その中でも1番人気はやはりロースかつ定食990円だという。
提供されたロースかつ定食を見ると、一見何の変哲もない、店主の森さん曰く「フツーの」ロースかつ定食に見えるが、本当にフツーのロースかつ定食だとしたらとんかつ激戦区・蒲田の街では生き残れない。
実際に食べてみると、フツーどころか特別な味わいのするロースかつだということがよくわかる。ころもはサクサクで脂っこくなく、中のお肉もしっとり柔らかい。脂身の甘みも適度に感じられて、特製ソースとの相性もバッチリ。ご飯がグイグイと進むのも納得だ。
取材中「特にこだわりはない」と言い続けていた森さんだったが、ロースカツのお肉について尋ねると、「このお肉は10年ほど前にリニューアルしたときに変えたんですよ」と教えてくれた。
先代が厨房に立っていたころ、『多津美』で使っていた豚肉は沖縄産のスーパーポークという品種のもの。常連客からの評判も良かったが、あるとき不意に豚肉をガラっと変えたという。そのキッカケとなったのは夫婦で行った北海道への旅行だった。
「カキフライに使うカキの業者が北海道にあるので、見学がてら北海道へ旅行に出たんです。その道中に立ち寄った定食屋さんで食べた豚丼のお肉がとてもおいしくて。妻がすごく気に入ったんですよ。それでなんてお肉を使っているのかを教えてもらって、ウチでも使えないかな? と思ったんです」
森さん夫婦をうならせた豚肉の正体は北海道のブランド豚である阿寒ポーク。自然由来の上質な水と雄大な大地のもとで育つため、脂身には嫌なしつこさや肉の臭みも少なく、柔らかい肉質が特徴でまさにとんかつにするにはうってつけの豚肉である。
「旅行から帰って早速、阿寒ポークのことをネットで調べて。業者に連絡したら対応してもらえるということになりました。当時、阿寒ポークをチルドの状態で仕入れている店は都内でもウチくらいしかなくて。その目新しさもウリになったかもしれないです」
全く新しい食材でリニューアルした『多津美』のロースかつ。今までとはガラッと変わるだけに当然ソースも新しくする必要があった。
「以前のものよりもマイルドにするように心がけました。甘みのある味わいのお肉なので、それを生かすように」
通常よりもやや甘めに作られたソースにロースかつをくぐらせ、ご飯をかき込むように頬張る――これぞとんかつのストロングスタイルともいうべき味わい方だが、『多津美』のロースかつ定食はまさに古き良き時代のとんかつ定食を踏襲しているのだ。
僕の身体が動く限り、精一杯頑張るだけ
先代からの味を引き継ぎつつも、とんかつの要ともいうべき豚肉を刷新するなど、時に大胆なリニューアルを経てきた『多津美』。気になるのは今後の展望だが、店主の森さんは飄々(ひょうひょう)とこう答えてくれた。
「今後の展望? 特にないですよ。お客さんが来てくれて、僕の身体が動く限りは精一杯がんばる。それだけです」
一見、飄々としているように見える森さんのスタイルだが、その裏にはお客ファーストの思いに満ち溢れている。阿寒ポークによる優しい味わいのロースかつが蒲田の街に愛されているのは間違いない。
構成=フリート 取材・文・撮影=福嶌弘