10年以上かけて選定した計130点の作品を展示
日本の明治初期~現代の美術作品に描かれた電線・電柱に着目した『電線絵画展』。展示作品は日本画、油彩画を中心に、版画、現代美術作品など計130点にも及んでおり、登場する作家も河鍋暁斎から岸田劉生、山口晃まで非常に多様だ。
なお電線や電柱に着目した大規模な絵画展は前例がないもの。展示作品は練馬区立美術館・学芸員の加藤陽介さんが10年以上をかけて選定したそうだ。
その「電線絵画展」は全12章で構成。各章は時系列順に配置されているので、順路通りに見ていけば、「各々の時代の社会で電線・電柱はどのような存在だったのか」が体感できる内容となっている。
驚き? 納得? 浮世絵にも登場する電線・電柱
まず驚くのは、「日本最古の電線絵画」として展示されているスケッチ「ペリー献上電信機実験当時の写生画」が嘉永7年(1854)と非常に古いものだということ。そして明治時代の浮世絵にも電線・電柱が登場するものが多数あるということだ。
横浜-東京間で電信が開通したのが明治2年(1869)、そして電力を供給する電柱・電線が東京市内に広まったのが明治20年代という歴史を知ると、浮世絵に登場するのも納得ができる。だが、江戸時代のイメージが強い「浮世絵」と、近代化の産物といえる「電線・電柱」の組み合わせには、やはり新鮮な驚きがある。
そして浮世絵のなかには、電線や電柱がどこか誇らしげに描かれているものが多い。だがこれも、浮世絵が当時の風俗を反映するもので、好色気味の俗世間を描くもの……という性質を知ると、近代化の産物たる電柱が“最先端の風俗”として描かれていることも理解できるのだ。
こうした明治期の「電線絵画」を見るだけでも本展は非常に面白いのだが、また興味深いのは、電線や電柱がここまで絵画で描かれてきたのは日本特有の状況だということだ。
国土交通省の資料「海外の無電柱化事業について」によると、ロンドンやパリなどでは電線の地中化率が100%の状況。ロンドンでは19世紀の街灯建設に際して、すでに法律で架空線の建設を禁止。パリ市内は電力供給当初から電線を地中化されていた。またアメリカのニューヨークも、19世紀末には電線の地中化が一気に進展したという。つまり、欧米諸国では「電線が街なかに存在した時代がほとんどない」という都市も多く、電線や電柱が絵画の中で描かれてこなかったのだ。
「絵画に描かれる電線・電柱は日本特有のガラパゴス的なものであり、地中化の進展で『絶滅危惧種』にも近づいています。また美術史と産業史は分けて考えられがちですが、決して切り離せないもの。産業が発達して世の中が変われば、絵画で描かれるものも変わりますし、同じものを描く際の視点も変わります。電線・電柱を描く絵画は、日本独自の産業発達に伴って生まれたものなので、『そうした絵画を読み解くことで、海外にはない近代美術史・産業史を描けるのではないか』と思い、この展覧会を企画しました」(練馬区立美術館学芸員 加藤さん)
富士山と電柱は「同じくらい誇らしいもの」
明治期に電線・電柱を描いた絵画には、ほかにも興味深いものが多い。「電線絵画展」のキービジュアルとしても使用されており、ひときわ目を引く存在だったのが、小林清親の『従箱根山中冨嶽眺望』。明治13年(1880)の作品だ。
「画面にここまで堂々と、富士山に負けない存在感で電柱を描いてるのが面白いですよね。多くの人は写真を撮るときや絵を描くとき、人工物を除外する。富士山の写真を撮るときも、電柱は画面から排除する人が多いでしょう。だからこそ、この絵画の描き方は『今の私達には考えられないもの』に感じられるはずです」
そしてこの絵画では、画面左側の電柱は「縦のライン」を作る唯一の人工物として大きな存在感を放っている。その頂部から斜めに走る電線も、地平のなだらかな起伏と並行したラインを描いていて、画面全体の統一感の形成に一役買っている。この絵画は「電線や電柱が入ることで全体がバシッと決まり、美しいものにもなっている」(加藤さん)のだ。
「旅装束の人物も描かれていますが、これが決して作られた情景ではなく、明治の日本に存在していた情景だというのも面白いです。電線や電柱は、この作品が描かれた明治時代では『近代化の産物』であり、『誇らしいもの』でした。だからこそ富士山と並び立って描かれているのです」(加藤さん)
同じ景色でも電柱を描く作家・描かない作家がいる
このように絵画の中では「近代的なもの」「新しく誇らしいもの」として描かれてきた電線・電柱。一方で2021年という今を生きる世代には、電線・電柱が「懐かしいもの」と感じる人も多いはずだ。下記の川瀬巴水(1883~1957年)の大正時代の作品には、そのノスタルジーが十二分に感じられる。
「川瀬巴水は歌舞伎座の外観を描いた作品にも、平気で電柱を入れてしまいます。そしてその風景は、今の時代の日本の人が見ても特に違和感のないもの。われわれの記憶にある『伝統的な風景』『叙情的な風景』と言い換えてもいいものです。いわば電線や電柱は、『街のノスタルジックな雰囲気を構成するパーツの一つ』と我々には感じられるわけです」(加藤さん)
一方で、「存在しないはずの電柱」を絵の中に書き込む作家もいる。それが下記の岡鹿之助(1898~1978年)の作品だ。展覧会で見たときは「一体どこの国の景色なんだろう?」と感じさせる不思議さがあったが……。
「彼の描く街にはヨーロッパの雰囲気がありますが、そこに存在しないはずの電柱が描かれています。つまり存在しない景色を描いているわけですが、その景色の中に電柱は見事に溶け込んでいます」(加藤さん)
なお「電線絵画展」では、「同じ時代に同じアングルで描かれた作品でも、片方の作家は電柱を描いていて、もう一方の作家は電柱を描いていない」という例も紹介されていた。
「絵は“絵空事”ですから、何を描くか・描かないかは作家が決める。そこに作家の個性が表れて、作家のオリジナリティが生まれるわけです」(加藤さん)
電柱は景観の阻害要因か否か?
そして町中の電線・電柱を考えるにあたって避けて通れないのが、日本で進む無電柱化と、その中で広まる「電柱=景観を汚すもの」というイメージだ。国土交通省が掲げる「無電柱化事業の目的」には、「景観・観光」、「安全・快適」、「防災」の3つの要素が挙げられており、「景観・観光」の部分では「景観の阻害要因となる電柱・電線をなくし、良好な景観を形成します」と書かれている。
だが「電線絵画展」に展示された作品を見ていると、「果たして電線や電柱は『良好な景観を阻害するもの』と言い切れるのか」「電線・電柱があるからこそ『美しい』『面白い』と感じる景観もあるのではないか」とも感じられてくる。
かねてから電柱をモチーフにした作品を制作してきた作家で、この『電線絵画展』にも複数の作品が展示されている山口晃は、本展の図録で「電線は美的景観を損ねるもの」という主張に対し、「仔細な観察や検討の不在、イメージによる先導があると思われるのです」との見解を披露。「風景を記号的にしかみられない事の弊害は何がどう醜いのかの不理解と共に美に対しての不理解も生みます」とも書いていた。
葛飾北斎の赤富士に電柱が映り込んだ 「無電柱化民間プロジェクト」のキービジュアルが、「これはこれでカッコいいのでは?」とネットで話題を呼んだように、電柱・電線という存在は、景観に与える影響一つとっても「良いもの・悪いもの」と言い切れるものではないと感じられる。また地中化事業の進む日本橋の上空を走る首都高も同様で、近年は土木構造物に美しさや面白さを見出す人が増えつつある。
また一方で、人は街を見るときや街の写真を撮るとき、そうした電線・電柱の記号的イメージの影響をどこかで受けているはず。再開発されたキレイな街を撮影するときは、画面内に電線・電柱が入り込んだら「アングルを変えて電柱を写さないようにしよう」という人は多いだろうし、逆に古い街並みを撮影するときは、電線・電柱を「街のノスタルジックな雰囲気を構成するパーツの一つ」として無意識に利用しているはずだ。
『電線絵画展』は、そうした電線・電柱の記号的意味や、その歴史的変遷などを知るうえでも非常におもしろい内容だった。街歩き好きの人、街の写真を撮るのが好きな人は、「自分が街の風景とどう向き合っているのか」を考えるうえでも面白い展覧会になるはずだ。
なお近年は渋谷直角のマンガ「空の写真とバンプオブチキンの歌詞ばかりアップするブロガーの恋」で、主人公が電線+空の写真を撮っていたように、「サブカル気取りの人、電線越しの空の写真をSNSにアップしがち」なんてイメージも広まっている。電線・電柱の持つ記号的意味は、今後も産業の変化とともに変わっていくのだろう。
『電線絵画展 -小林清親から山口晃まで-』
会場:練馬区立美術館
会期:2021年2月28日(日)~4月18日(日)※会期中展示替えあり
休館日:月曜日
開館時間:10:00~18:00 ※入館は 17:30 まで
主催:練馬区立美術館(公益財団法人練馬区文化振興協会)
出品協力:東京国立近代美術館
観覧料:一般 1,000 円、高校・大学生および 65~74 歳 800 円、中学生以下および 75 歳以上は無料(その他各種割引制度あり)
※一般以外の方(無料・割引対象者) は、年齢等の確認ができるものをお持ちください。
詳細:練馬区立美術館ホームページ
取材・文・撮影=古澤誠一郎