「スタートしました」という放送はあったものの、スタート地点は2㎞先。ただ暑い。数分後、ボートが現れて真新しい観客席が興奮に包まれる。スィーッと通り過ぎて無事ゴール。海の森水上競技場完成記念レガッタの一幕だ。
オリンピック出場経験者が競うオリンピアンレースもあった。船尾で号令と舵取りを担うコックスの萬代(まんだい)治さんは何と55年前の東京オリンピック選手。今も社会人チームで現役だ。「さすがオリンピアンはうまい」と私の隣でつぶやく村瀬康さんも東京オリンピック出場組で、今春まで母校の監督アドバイザーだった。
幻の1940大会のために誕生した戸田ボートコース
彼らが長年愛用する「戸田」にも行ってみた。案内役は日本ボート協会の吉田健二さん。戸田公園駅からの道筋には珍しいボート用品専門店。「学生時代はずっと合宿するので、卒業後も戸田に住むOBもいます」。80代のシニア選手も多いという、ボート界の層の厚さにも驚かされた。
戸田ボートコースは荒川土手のすぐ外側にあった。暴れ川だった荒川の大改修が行われた明治~昭和前半、ここ戸田でも貯水池と排水路工事が計画された。ちょうど昭和15年(1940)のオリンピック招致と重なって貯水池をボート会場とすることに。しかし戦争でオリンピックは返上。何とか完成させたのがここだった。
戸田は再び1964年のオリンピック会場候補として脚光を浴びるが、当時の戸田町議会は反対の決議をしている。数十年前に振り回された記憶、何より上流側の戸田競艇場の収入が断たれる。道路工事など整備事業の予算も莫大だ。もめたあげく国や県の協力を取り付け、受け入れたのは開催2年前。突貫工事だった。
冒頭の2人のオリンピアンも日本選手として戸田ボートコースで合宿した。しかしそこで繰り広げられたのは、復興日本の力を見せつけろとばかりの激しい練習の日々だった。体調を崩した選手たちも出て、日本チームは苦戦。「当時は東西冷戦時代で国を懸けた外国人は体格ばかりかオーラも違った」と2人は今も悔しがる。
この日の戸田は、東京大学vs京都大学のレース中。学生たちは観客席では我慢できず、レースが近づくや一斉に岸辺を走り始めた。青春があちこちで水しぶきを上げる。海の森にもやがてこんな光景が繰り広げられるのだろうか。
取材・文=眞鍋じゅんこ 撮影=鴇田康則
(散歩の達人2019年8月号より)