滝沢秀一(たきざわしゅういち)
1976年生まれ。都立足立高等学校卒業。1998年、西堀亮とお笑いコンビ・マシンガンズを結成。2012年よりゴミ清掃員との二刀流に。『このゴミは収集できません』(白夜書房)など著書多数。2020年10月より環境省のサステナビリティ広報大使。2026年7月に開催した2年4カ月ぶりの単独ライブ「約束~ Supported by ガクテンソク奥田~」も話題に。
竹ノ塚はちょっと特別な街だった
—— 初めて竹ノ塚駅で降りたのですが、大きな駅で驚きました。
滝沢 俺が住んでたのは竹ノ塚と綾瀬のちょうど中間くらいなんですよ。バスで駅まで20分くらいなんだけど、朝は「車検場通り」っていう道が絶対混むんです。ひどいときは駅に着くまで1時間以上かかったなぁ。でも「出かける」っていったら竹ノ塚なんです。イトーヨーカドーがあって、屋上にトランポリンがあった。あと、当時のご馳走はロッテリアのハンバーガーで、お袋と一緒に行くと買ってくれるから、竹ノ塚は好きな街でしたね。お袋がちょっとおしゃれして街に出る、みたいなイメージ。近所のスーパーで済ませる買い物とは違う、ちょっと特別な外出でした。渋谷なんて別世界だし、北千住はヤンキーが多いから怖いし。これは最近知ったんですけど、竹ノ塚駅の東口のバスロータリーは、当時、終電後のナンパスポットだったらしいですよ。
—— 今日昼間に見たときはお年寄りが多かったです(笑)。
滝沢 あと、この辺だったら元淵江公園で、中学か高校のときに告白した記憶があります。足立区って駄菓子屋が多くて、部活帰りに3、4軒はしごしてました。近所の駄菓子屋の親父(おやじ)がろくでもない人で、ゲームで遊んでると「お前ら出てけ」って子供を追い出して店で麻雀を始めたり。お袋さんの方はおでんを作ってて、これがもうしょっぱくて。今思えば、労働者向けの味付けだったのかもしれません。
うちの近くは「陸の孤島」だったから、廃車を積み上げたスクラップ置き場があったんです。それと冷蔵庫や土管が捨てられたゴミ山。俺が生まれて初めて「ゴミ」に出合ったのがそこですね。子供にしたらめちゃめちゃ楽しい遊び場で、それが日常でした。
足立区のボロアパートに流れ着いた
—— 滝沢さんはずっと足立区だったんですか?
滝沢 うちね、実は夜逃げしてきた家族だったんですよ。親父の工務店がうまくいかなくなって、足立区のボロアパートに流れ着いた。当時の家賃で3万円くらいだったんじゃないかな。大家さんが猫たくさん飼ってて、それで俺も猫が好きになったんですけど、ときどき磨りガラス越しに口紅を真っ赤に塗った顔でバーンと出てきて「出かけてくるからお留守番よろしくね」って言われて。子供心にめちゃくちゃ怖かった思い出があります。
—— お笑いの世界を目指したのはいつ頃だったんですか?
滝沢 高校生の頃、爆笑問題さんが出ていた『GAHAHAキング』っていう勝ち抜き番組を見たのがきっかけです。爆笑さんが駆け抜けるようにチャンピオンになって、そのときの客の揺れ方とか本当にすごくて、かっこいいなと思いました。うちのお袋はずっと(ビート)たけしさんが好きで。
—— 足立区のスターですよね。
滝沢 近所のスポーツセンターにたけしさんが営業で来たとき、たけしさんの到着が遅れて、雨の中1時間くらい待ってたんです。それで1時間遅れで登場した瞬間、会場が「ワーッ」ですよ。あれが生まれて初めて見た「大スター」でした。大学時代はバンドとかもやってたけど、やっぱりお笑いをやろうと思って、まず電話したんです、フジテレビに。
—— ……フジテレビ??
滝沢 芸人になるための情報が何もない時代だったから、とりあえずフジテレビに電話すれば分かるんじゃないかと(笑)。そこから『オーディション』という雑誌を買って、芸人養成所を知ったんですけど、NSCも人力舎のスクールも入所金が数十万円。払えない。結局、池袋のカルチャーセンターの「ユーモア講座」に1万5000円で通い始めました。
—— どうでしたか、ユーモア講座。
滝沢 周りは主婦やサラリーマンばかりで、プロを目指してる人間は誰もいなかったですね。一人だけなんか間違えてるやつがいるなと、それが相方の西堀でした。さらにお笑いライブというものの存在を知り、爆笑問題さんが出ていたライブハウス「ラ・ママ」に足を運ぶようになり。そこで当時、長井秀和さんが殴り書きのチラシで弟子募集をしていて、電話したら本人が出て驚きました。長井さん、チラシに自分の電話番号書いてんだもん(笑)。
—— RPGみたいにちょっとずつ芸人の世界へと近づいていってる(笑)。
滝沢 とにかく情報がありませんでした。結局はタイタンには若手を取る余裕がないと断られて、太田プロにプロフィール送ったら「一度スクールに入ってください」と学校の資料が送られてきて、金ないし入りたくないから無視してもう一回プロフィールを送って、また学校の資料送られて……っていうのを何ターンか繰り返したら、向こうが折れて「ネタ見せにきなさい」と。
—— よかった(笑)。
滝沢 そこから8、9年目くらいでようやく『レッドカーペット』に出ました。最初に深夜枠の『ピンクカーペット』に出られたときは本当にうれしかった。同じ時期、オードリーやナイツもなかなか世に出られてなくて、「漫才米騒動」っていうユニットライブを一緒にやってたんです。俺ら太田プロに行く前、ケイダッシュステージのオーディションにも行ったんですよ。それで、俺らマシンガンズとU字工事とオードリーの中から1組取ると。それでケイダッシュはオードリーを選んだ。見る目あるよね(笑)。
—— いや豪華なメンツです。全組取ればよかったのに!
滝沢 後からそれ言われました。でも当時そんな芸人を抱えきれないっていう事情も分かる、劇場もないですしね。その後ナイツもオードリーもM-1で結果をだして、でも俺らはなかなか難しくて。いろいろ工夫もして、ボケとツッコミ両方試したし、正直「俺らお笑い向いてないな」って、もうやめる寸前だったんです。じゃあ最後にこれだけ試させてくれって、そこで俺、二人ともツッコミのネタを作ったんですよ。
—— 今のマシンガンズさんのスタイルですね。
滝沢 もうやぶれかぶれなので、客をいじる悪口みたいなことまで言って、でもそれがライブでドカーンとウケた。あれは捨て身だからうまれたスタイルだったんですよ。
THE SECONDで準優勝して、急に「ビジュが爆発してる」とか言われたときも、正直意味は分からなかったけど、せっかく流れが来てるなら乗ってみようと。だって俺たち辞めるつもりだったんで、誰に何を言われてもいい。俺はかっこいい芸人になれなかったんだから、何でもやればいいと思ってます。
ゴミにまつわるつぶやきにいいねが何千もついた
—— ゴミ収集の仕事を始めたきっかけは?
滝沢 36歳のとき、アルバイトの求人を見ても「35歳以上不可」がほとんどで。何とか知り合いに口きいてもらって、ゴミ収集の仕事につきました。芸人もゴミ収集のバイトももう何年もやってきて、これ以上売れることもないだろうし、だったらちょっとでも芸人仲間に面白がってもらえるかなと思って、ゴミにまつわることをつぶやいたら、いいねが何千もついてて。有吉さんがリツイートしてくれてたんですよ。有吉さんが喜んでくれるならと、ゴミ分別について毎日投稿しようと決めました。
—— 今ではエコ関連のイベントにも引っ張りだこですよね。
滝沢 ありがたいです。イベントがあれば、後輩芸人にも仕事を作れるし。僕もいろんな人に助けられてきたから。足立区の、下町の助け合いの感覚に近いのかもしれません。子供の頃は隣の家に醤油を借りに行く文化がまだ残ってましたからね。
—— やさしいし、なんかたくましさもある。
滝沢 大竹まことさんにも言われました。「芸人はたくましいな」って。「お笑いがダメでも、ゴミの仕事を持ってきて、なんとか生き延びようとするよな、大したもんだよ」って(笑)。
こちらでお話を伺いました
『縁側カフェ』
昭和14年(1939)築、国登録有形文化財の洋館付和風平屋住宅「昭和の家」。その縁側がカフェとして開放されている。昭和初期の建築意匠と四季折々に変化する庭園を楽しみながら、和洋スイーツが楽しめる。本日のコーヒー640円、アイスティー(アールグレー)640円など。ときどきで替わる季節のタルトも。写真はモモ~福島県産はつひめ~のタルト890円。
取材・文=西澤千央 撮影=高野尚人
『散歩の達人』2026年9月号より







