まず、外へと出かける。そして目についたタクシーに乗る。いきなり散歩とは思えない行動に出るわけだが、とりあえず続きを聞いてほしい。

適当な降車地を指定して、タクシーが走り出したら、運転手さんに向けて「ああ、日本の景色も、ずいぶんと変わりましたねえ」と呟く。

すると運転手さんは、「お客さん、どこかに行っていたんですか?」と反応する。私はそこですかさず「いや、実は昨日、十年ぶりに日本へ帰って来たんですよ」という説明を繰り出す。もちろん嘘である。

ごめんなさい、真剣に聞かなくても大丈夫ですから。そう心の中で詫びながらも、「仕事の関係で、外国に十年間、滞在をしていたんです。中南米にある小さな国なんですけどね」と虚言を口にし続ける。ほう、そうなんですか。運転手さんは少し驚いてから、「あっちでの暮らしは、どんな感じでしたか?」と聞いてくる。

そこから私は、破竹の勢いで「ない」思い出を並べ倒す。

ヤシ酒を三日三晩飲み続ける奇祭に参加したことがあります。実はインフレがとんでもないことになっていて、滅多なことでは外食ができなかったです。医療保険制度が存在してないから、虫歯になった時は涙目になりながら自分で抜きました。黄金色のカナブンを見つけると幸運が訪れるそうです。「精霊には揚げたバナナを食わせるな」、これは現地の諺(ことわざ)です。朝は天使のように鳴き、夜は悪魔のように金切り声を上げる、それが中南米のカナリアなのです。

嘘だけど、ただいま、わが町

車内での雑談に長けた運転手さんは、この乗客が嘘をついていることに途中から気づきつつも、「……なるほど、黄金色のカナブンの話はどこかで聞いたことがありますね」と芝居に乗ってくれる。そうやって共犯関係を結びながら会話は展開し、そして私は白々しく「久々の日本は、やっぱり懐かしいや」と虚構の感慨を漏らす。

目的地でタクシーから降り、本格的な散歩のスタートだ。「久々の日本」を歩いてみようではないか。

先ほどのタクシーの中におけるストレッチによって、私の心情には十年ぶりの帰国者という設定が搭載されているので、目に映るものすべてが懐かしく、それでいて新鮮である。

そうだったなあ、この時期の日本は、盆踊り大会が各所で開催されているんだよなあ。地域掲示板に貼られているポスターを見ながら、しみじみとする。ヤシ酒を飲み続けなければならない、あの強烈な祭りと違って、盆踊りは穏やかな風情があるんだよなあ。ただいま、日本。

自動販売機の前で立ち止まり、冷たい緑茶が百六十円で売られていることに驚く。あの国の圧倒的なインフレの中では考えられないような値段である。それを一本購入し、ごくごくと音を鳴らして飲む。喉が焼けるようなヤシ酒とは比較にならない清涼感だ。おかえり、自分。

そうしているうちに、「久々の日本」も懐かしいが、「中南米で過ごした日々」もまた、懐かしいものに思えてくる。

公園の脇を歩けば、けたたましい蝉の鳴き声が鼓膜を打つ。日本の夏も大概だが、あっちのカナリアの金切り声も凄まじかったよな。ねっとりとした風が吹き、赤道直下での暮らしがフラッシュバックする。ああ、懐かしい。なにもかもが、懐かしい。

遠くに見える縁日の景色も、また懐かしい。おかえり、自分。
遠くに見える縁日の景色も、また懐かしい。おかえり、自分。

散歩の景色は歪んでいく。一体いま、私は何を懐かしんでいるのか。架空の過去が懐かしいのか、それとも捏造の現在が懐かしいのか。ここはどこ、私は誰。まるで日常の裏側にある世界に迷い込んでしまったような心地で、散歩を続けていく。自分の国でありながら、異国でもある街並みを、鮮明に味わっていく。

そして自宅へと帰還する。和室の畳に大の字となり、青い匂いをいっぱいに嗅ぐ。

「……ただいま」

その「ただいま」は、いつもの散歩の終わりで漏らす「ただいま」の、何十倍もの感慨がこもった「ただいま」である。

文・写真=ワクサカソウヘイ
『散歩の達人』2026年9月号より

#13 「二度とこの町に戻ることはないのだ」と思って散歩「いつまでもあると思うな、同じ道」。そんな格言はこの世に存在などしていないが、しかし私はこれを格言としてこの世に広めたい。どうして自分は通常の散歩に飽きてしまっているのであろうか。その理由のひとつに、「いつもの散歩道をありがたがっていないから」というものがある。そう、私は信じ切っているのだ。わが町内の道は、いつまでもあるものなのだと。
#12 いつもの帰宅を崩壊させる散歩あなたは、まだ帰宅の可能性に気づいていない。夕飯を食べたい、風呂に浸(つ)かりたい、スマホを充電したい。通常の帰路において、我々は道中の景色などスキップして、ただただ「家に帰る」という目的を叶(かな)えるためだけに猛進しがちだ。