私は大きなユリノキの下で、蒼介のリュックサックを自分のリュックサックにしまった。それから、今日はまずどこに行こうかとあたりを見回した。東洋館のラウンジか三階のテラスか、本館奥の庭園のベンチか、本館と平成館をつなぐ通路の休憩所か、法隆寺宝物館の二階か、今は特別展がやっていないから平成館のラウンジでもよさそうだ。

私がこんなに東京国立博物館(トーハク)で落ち着いて過ごせる場所に詳しくなったのは、もう姿が見えなくなった息子のおかげだ。

子供と一緒に親も学ぶ——その教育的効果は誰もが語るところで、スポーツでも勉強でも何でも、親が楽しむ姿勢を見せれば子供は興が乗るし、親もまともなアドバイスができるようになる。何回か出た塾の面談でも「ご家庭を理想的な学びの場にしてあげてください」と言われた。

スポーツならなんだって歓迎だった。でも蒼介は運動が苦手で興味もなく、将来のためと通わせたスイミングは、クロールと平泳ぎが何とか形になったところでやめた。他の運動系の習い事は考えもしなかった。文化系だろうと思ったけれど、上野でいえば、科学博物館も動物園も美術館も、それなりに楽しむだけだった。

そのうち、男子の定番である戦国時代とかに興味が出てくるかもしれない。そんなステレオタイプを望む時代ではないとは思いつつ、自分も通った道だとささやかな期待をした。初めてトーハクに連れて来たのは小四になったばかりの頃、日本刀も甲冑も通り過ぎるのを見てまだ少し早かったかと思いつつ、そういう趣味嗜好も定まらない時期に本物を見せておくのはいいことだと、親の責任を果たしている気になった。

でも、その時にはもう決まっていたのだ。

あの日、子供らしくずんずん進む息子を引き止めることもせずに本館を一時間で回り終えてから、いったん外に出て平成館に向かった。目的は考古展示室で、蒼介はそこに一歩踏み入れた瞬間、目の色を変えた。閉館ぎりぎりまで二時間以上、夢中だった。ゲーム以外でそんな様子を見せるのは初めてで、私は正直に言うと戸惑ってしまった。予兆もなく、これほど突然に、何かに出会ってしまうものなのか。

そんなことを思い出しながら、外の階段から東洋館の三階テラスへ上がった。洒落(しゃれ)たテーブルと椅子があって、前庭の広場が見下ろせる。中央の池はなくなるらしく、ずいぶん前から水も抜かれていた。

できるかぎり、好きなことを好きなだけ学ばせてやりたいし、そんなものに出会えたのは喜ばしいことだ。でも、旅先で博物館や考古学センターめぐりをしている時はまだしも、こうして日曜にもう何度来たかわからないトーハクに来て、一人で時間をつぶすためにあれこれ考えていると、思わないでもない。

石器や土器じゃなくてもいいじゃないか。

父親として、どうしても考古学に興味が持てないんだと口に出すことはない。息子の方でも期待はしていないだろう。五年生になったとはいえ、上野は一人で行き来するほどには近くないから、引率だけしてくれたら文句はないのだ。平日は母親が色々と同行してやり、休日は家族で、もしくは父親が連れ出す。家庭内の分担もできていて、「学びの場」は作れているはずだ。

私は自分のリュックサックから一冊の文庫本を取り出した。読書なら、場所を問わず穏当に時間をつぶせる。付き添いに厭気がささないのは、一人でゆっくり本が読めるからだ。

ただ、今日はかなり長くなりそうだった。常設の展示とは別に考古学関係の企画展がやっているからだ。「一番大事な石器がくるんだ」と興奮していたから、三時間以上は見ておくべきだろう。厚みを確認してから、表紙を見る。

相沢忠洋『「岩宿」の発見 幻の旧石器を求めて』。

今やっている企画展を見に行きたいという話になった時、蒼介が貸してくれたものだ。相澤忠洋が岩宿遺跡を発見したことで、日本に旧石器時代が存在したことが証明された。そのくらいのことは学んだ覚えがあるし、蒼介に付き合っているとたびたび目にする名前だ。岩宿は夏休みの旅行先候補でもある。

その自伝だというが、私は本に関しては雑食で、ジャンルを問わず何でも読むから不安はなかった。少しでも興味が持てればという淡い期待に反して、読み始めてすぐに引きこまれた。

恵まれているとは言えない、なんて生やさしいものではない孤独な境遇。両親、妹三人、弟一人で鎌倉で暮らしていた相澤少年は、九歳の時に父母が離婚して一家離散。やがて桐生で父と暮らし始めるも、すぐに浅草へ奉公に出される。

幸福な時代からすでにあった石器への興味は、浅草寺の露店でなけなしの小遣いで石斧を買うほどだった。学校の先生に勧められて、相澤少年は帝室博物館へ向かう。現在の東京国立博物館だ。でも、最初は入ることができない。「あまり大きい建物なので、私のような者が行く所ではないような気がして、そのときは塀ごしに見ただけで帰ってきてしまった」。

私は顔を上げ、そびえ立つ本館に目をやった。当時の姿がどんなものか知らないが、右も左もわからない少年が一人で来るのは、親に連れて来てもらうのとはわけが違うだろう。そんな彼が初めてここに足を踏み入れたのは十二歳の時、一九三八年の暮れのことだった。「年内最後の休日」と書いている。

 

最初のへやに入ると、ガラスの大きなケースに、埴輪や大きな土器があった。

順路にそって見ているうちに、私は自分の目をうたがうくらいおどろいてしまった。自分が、コウリのなかにもっているやじりや斧とまったく同じ形をしたものが、この立派な博物館のなかにいくつも並べてあったからだ。

私は息をつめて凝視した。

石斧や土器を初めて手にしたときの鎌倉でのことや桐生でのことが、走馬燈のように頭のなかで回転するのだった。

 

「息をつめて凝視した」という文に、あの日の蒼介の横顔を見る思いだった。あの時、小さな頭の中には何があったのだろう。私が知らないだけで、何かが走馬灯のように回転していたのだろうか。

私は場所を変えるのも忘れ、相澤忠洋の人生を夢中で読みふけった。海軍志願をして戦争が終わると、桐生で行商をしながら発掘をする毎日。専門的な教育を受けたわけでもない彼は、「行商人のやっていることなど学問ではない」と思われながらもひたむきに調査を続けた。

凄まじい情熱。蒼介の中にある炎は、いつまでこんな風に燃えていられるだろう。

一九四六年、それまで遺物は出ないと思われていた関東ローム層の赤土が露出している岩宿の崖で石器の破片を見つける。決定的な遺物が出ないかと通いつめてさらに三年が経った一九四九年、ついに黒曜石製の槍先形尖頭器を発見。透き通る神秘的な美しさから、その時代に人間の生活があったことを確信する。

この時、発掘した石器を洗うところには子供が何人もいた。「子どもたちはいつのまにか私をとりかこんで、私とその石器とを目をかがやかせて見守っていた。みんなでかわるがわる石器を手にし、西にかたむいた太陽の光にすかして見ながら、感歎の声をあげるのだった」。

歴史的遺物をためらいもなく、かつての自分のような子供に持たせてやる相澤忠洋。その中に蒼介がいたらと私は夢想した。そしてこれは意外なことに、私もまた、自分がそこにいたらと考えずにはいられなかった。

気付けば本を閉じていた。スマホを確認すると、まだ二時間ほどで着信もきていない。

私は荷物をまとめ、平成館に急いだ。走りはしないけれど、早歩きになった。蒼介が外から向かう理由が今ならわかる。見たいものがあれば、一直線に向かうだけだ。相澤忠洋が発見したものを、蒼介が「一番大事な石器」と言っていたものを、私も見たい。

「ビフォー縄文 旧石器時代発見80周年」という企画展の入り口にそれはあった。それだけを収めたガラスケースの中で、きらきら輝いていた。

私はその美しさに目を見張った。説明にも「見た目が優美な点も特徴です」とある。

ただ、これを最も美しいものとして見ることができたのは、相澤忠洋その人だっただろう。息子にも歴史的発見をしてほしいなんて大それたことは思わない。でも、美しいものに出会ってほしい。心からそう思った。

蒼介の姿は見えないから、考古展示室にいるのだろう。いなくてよかったと安堵したのは、涙ぐんでいる自分に気がついた後だった。

文・写真=乗代雄介
『散歩の達人』2026年9月号より

参考文献=相沢忠洋『「岩宿」の発見 幻の旧石器を求めて』、講談社文庫、1973年

LINEのグループ名は「26卒同期」だった。二十人ほどの内定者懇親会の一角で作られたグループに、強制ではないと言いながら全員が入らされ、いつの間にやら、その運用も兼ねて入社式前に上野公園で花見をやろうということになっていた。その計画が自分たちのもとに届いた時、隣にいた養田(ようだ)くんが、聞こえるか聞こえないかの声でつぶやいた。「花見やる会社にだけは入らないぞって思ってたのにな」
ホームからの階段を上がって時計を見ると、12時15分。ちょっと遅れたけど、慌てるほどでもない。でも不安になって、新幹線の予約を確認した。上野発、こまち23号、秋田行き、13時26分。
土曜の昼下がり、取引先からもらった招待券で国立西洋美術館に行く予定で京成上野駅に着いた。池の端口の案内に不忍池方面とあって、小さい頃に家族でボートに乗ったのを思い出してうれしくなる。はりきって池の畔(ほとり)に出てみたけど、ボート池は反対側にあるらしかった。